・・・恋の力?・・・



 終業式の日のことだった。全然知らない三年生の人から告白されて、とりあえず断った。何故かというと全然知らない人だったから。結構きれいな人だったから嬉しかったけど、でも断った。だってほんとに全然知らない人だったんだ。好きな人がいるので付き合えません、と一番当たり障りがないと思われる断り文句を口にすると、三年生の人の顔がショックに歪むのが分かって、あっやばい、と思った。泣くかもしれない。泣かれるのは困る。もうどうしていいのか分からなくなるからだ。どうしようどうしよう、と思っていると、
「そう。好きな人いたんだ。じゃあ仕方ないね」
 ものすごい早口で言って、三年生の人は去って行った。前につんのめりそうになりながら早足で遠ざかって行く三年生の人の後ろ姿を見ながら、なんだかどうしようもない気持ちになった。別に自分は悪いことをしたわけではない(はず)なのに、罪悪感で胸がチクチクした。罪悪感なんてものを感じるのはちょっと相手に失礼な気もするけれど。

 一部始終を隣りのクラスの知り合い(友達と呼べるほど親しくはない。なんか微妙な仲だ)に見られていたようで、後でさんざん色々言われた。
「美人だったのに〜! 勿体無い!」
 俺だったら絶対OKするね、とそいつは言った。何度も何度も“勿体無い”を繰り返す。勿体無いとかそういう問題かね。
「ていうかって好きな子いたんだ?」
「ああ、あれは、」
 体良く断るための嘘なんだ、と言おうとしたところで、ふと一人の人物が頭を過ぎって、思わず言葉が途切れた。
 誰なんだよ言えよ、と好奇心に満ちた様子で問われて、
「秘密だよ」
 と返した。
「なんでだよ。言えよ」
「やだよ。お前口軽いし」
「誰にも言わないからさ」
「うそつけ。お前口軽いじゃん」
「言わないって! まじで。約束する」
「教えません。俺もう帰るよ。さっさと帰ってクーラー効いた部屋で寝るんだ」
 しつこく問い詰めてくる相手を適当にあしらって背を向ける。
のケチー!」

 ああ、なんでかな。どうしてあんなにも他人の好きな人を知りたがるのか。俺には分からん。

 厳しい夏。地獄のようだ。じりじりと肌を焼く強い日差しに曝されながら家路を急いだ。夏は嫌いだ。ひどく蒸す。大気が熱気と湿気を帯びていて、息苦しい。早く家に着けばいい。家に着いたら、冷たい麦茶を飲んで汗にまみれた制服を脱いでシャワーを浴びてクーラーの効いた部屋でパンツ一丁で横になる! それを心の支えにして歩みを進める。ああ蝉がうるさい。目眩がする。蜃気楼が見える。頭がガンガンした。全然知らない三年生の女の人の後ろ姿。すらっとして色が白くて髪の毛が真っ直ぐで整った顔立ちをしていた。でも全然知らない人で、うん、けれど、全然知らない人だけど、俺のことを好きだと言った。一体俺のどこを好きになったんだろう。気になるけどそんなこと訊けるわけなかったし、今後訊く機会もないし、これは永遠に謎のままだ。ああ本当に、蝉がうるさい。去年もこんなにうるさかったっけ。去年もこんなに暑かったっけ。夏が来るたびそんなことを思っている気がするよ。毎年毎年“今年の夏は最高に暑い”と言ってる気がする。今年の夏が訪れてしまえば去年の夏は消えてしまう。“好きな人がいる”だなんてあんなのは断るための口実で、そう、嘘だったはずで、でも隣りのクラスの奴に問い詰められたとき、確かに頭の中を、一人の人物が、

「あっつ…」
 そこまで考えたところで、思考停止、もう限界だと思った。暑くて暑くて、もうこれ以上歩けない。自慢じゃないけど俺ってほんとに根性無いんだ。(ほんと自慢にならない!)とにかく涼しいところに避難しようと近くのコンビニに向かった。
 自動ドアが開き、イラッシャイマセ〜という店員の張りのある声に迎えられて足を踏み入れた先は、まさに天国! 涼しい空気が体を冷やし、一気に生き返る思いがする。店内は壁も床も白く、天井にも白く煌煌と輝く幾つもの蛍光灯。店の中は眩しいくらいに白く明るかった。その白さとの対比か陳列棚の商品がとてもカラフルに見える。飲み物だけを買うつもりだったが、思わずそのへんのものを手に取って眺めたくなる。ふと、自分が今ひどくほっとした気持ちでいることに気付く。我慢して真っ直ぐ家に帰らずに、ここに逃げ込んで良かった。告白されたことも、それを断ったことも、ショックを受けた彼女の表情も、その後ろ姿も、隣りのクラスのそれほど親しくもない知り合いから興味本位で色々尋ねられたことも、告白を断ったことや知り合いを適当にあしらったことを責めるように帰路を阻む強い日差しも、それら全てがストレッサー。今気付いた。自分が落ち込んでいることに。どれくらい落ち込んでいるのかというと、家まで休憩無しには帰れないほどにだ。(その落ち込みようが大きなものなのか小さなものなのかは分からない。)とにかく、この場所は、落ち込んだ自分にとっての一時的な避難場所だ。ああ、頭がどんどんクリアーになっていく。そういえば、店に入る前、誰かの顔を思い起こそうとしていた気がする。そうだ、隣りのクラスの奴に、好きな人を問い詰められたときに、頭の中に、誰かが、

「真田!」

 ジュースの並ぶ冷蔵庫の前に立っているクラスメイトを目にして名前を呼んだ。存外に大きな声が出てしまい、他の客を驚かせ、少し注目されるはめになった。さらに驚いたのは名前を呼ばれた本人だろうが、その本人よりも、実は自分の方こそが驚いていた。つい大きな声で名前を呼んでしまった。本当に咄嗟だった。恥ずかしくなってくる。
 驚いた表情で振り返った真田は、少々つり上がっているのが特徴の目でこちらを真っ直ぐに見てきた。意志の強そうな目だなあ。初めて会ったときからそう思っていた。真田と同じクラスになったのは二年になってからだったが、一年生のときから彼のことは知っていた。実を言うと入学当初から知っていた。真田はちょっと有名な奴だった。これは噂で聞いたんだけど、真田はナショナル選抜に選ばれるほどにサッカーが達者らしい。俺はサッカーに興味が無く詳しくないから、それがどれほど凄いことなのかはっきりとは分からないけれど、でも凄いということだけは分かる。俺が真田のことを知っているのは真田がサッカーで有名だからではなかった。そういうことを知ったのは、クラスが一緒になってからだ。
 入学して間もない頃、真田と廊下ですれ違いざまに肩がぶつかったことがあった。俺は丁寧に謝罪の言葉を口にした(つもりだった)が、真田は独り言かと思うほどの小声で“わりい”と言ってさっさと立ち去った。ちっとも“悪い”なんて思ってないように見えた。なんて感じの悪い奴だ、と思った。そういえばツリ目だし性格の悪そうな顔をしてるな、と思った。

 真田はただ真っ直ぐにこっちを見ているだけで、何の反応もしないものだから、もしかして俺が誰だか分からないのかと不安になる。まさか同じクラスなのにそれはないだろう。いや、でも、もしかしたら。いや、でも事務的な会話は何度か交わしたことがあるし、調理実習で班が一緒だったこともある(その関係で、何か連絡が必要だった場合のためにということで、班の中で携帯番号を教え合ったから、お互い番号は登録している仲なのだ。結局特に連絡の必要は無く、調理実習は無事終わり、番号を登録していたことすら今思い出したくらいなんだけど)。だから、俺の顔と名前が一致してないなんて、さすがにそれはないと思う。だって、それではあまりにも。
「俺、。ほら、同じクラスの」
 とりあえず名乗った。だって反応が無いから。
「分かってるよ」
 馬鹿にされたとでも思ったのか、ちょっとムッとした表情で真田が答えた。分かってるなら、何か反応してくれればいいのに。名前くらい、呼んでくれたって。
 不機嫌そうな顔をして、500mlペットボトルのなっちゃん(りんご)を手に持ってる様子がなんだか微笑ましくて笑ってしまいそうだった。
「何がおかしいんだよ」
 真田はさらに不機嫌そうな顔になった。俺はさらに笑ってしまいそうになった。

 真田はクラスに特別仲の良い友達というのはいないみたいだった。孤立しているというわけではない。休み時間や教室移動の際に一緒にいる友人は何人かいるようだし、別のクラスには親しい友人(たぶん一年のときに同じクラスだったのだろう)がいて、そいつが教科書を借りに真田のところに来ることもある。でも、なんていうか、学校の外でも個人的に遊んだりするような友達は、少なくとも同じクラスにはいないように見えた。孤立しているわけでもなく、友達がいないわけでもない、でもどこか浮いている。中学生である俺達にとっては、家庭という居場所を除けば学校が第一の居場所だ。そこで色んなことを経験し、学習する。学校という場所は、良くも悪くも俺達にとってはとても重大だ。真田がどこか浮いている理由、それは彼には学校よりも大事な場所が他にあるからだろうと思う。そこはサッカーをする場所だろう。そして、そこには、彼が個人的に付き合うような親友と呼べる友人がいることだろう。そのことに少しホッとしたり、そのことを少しだけ寂しく思ったりするのは何故なんだろう。どうしてこんなに他人のことが気になるんだろう。

「今から暇? 良かったら一緒に外で昼飯食わない?」
 どうしてこんな誘いの言葉が口から滑り落ちるんだろう。
「えっ!」
 あからさまに驚いた様子の真田。そりゃそうだ。さほど親しくもない、クラスメイトと呼ぶ他はないような知り合いに食事に誘われたのだから。
「ああ、いや、その、ごめん。これからちょっと約束があって…」
 学校外の友達との約束かな。それとも彼女とデートだったりして。
「そっか。残念」
「ああ、うん、わりい」
 ちっとも“悪い”なんて思ってないようなぶっきらぼうな言い方だった。でも本当は分かっていた。真田は単に不器用で無愛想なだけで、別に悪気があるとかそういうんじゃないということ。あと、人見知りがすごく激しい。同じクラスになって、友達になったわけじゃないけど、でも真田のそういうところはすぐ分かった。
 早くこの場を去る言い訳を作るみたいに携帯を取り出して時間を確認する真田を失礼だとは思わない。きっと彼も居心地の悪い思いをしているんだと思うと、申し訳無くて、なんだか自分が惨め思えてきた。どうして自分はこんなに傷付いているんだろう。一体自分は何をしているんだろう。
「引き止めて悪かったよ。またな」
 また、二学期に会いましょう。いや、二学期が始まる前にも会うかな。夏休み中に登校日があったはずだ。それまではどこかで偶然会うことはあるかもしれないけど、でも会わない確率の方が高いかな。
「うん、またな。ああ、うん、えっと、ほんと、また、今度。夏休みの間に、俺もも空いてる日にでも、また会えたら会おう」
 社交辞令だな。食事の誘いを断ってしまったことにちょっと罪悪感を感じているのかもしれない。でも断るのは当然じゃないか。約束があったんだし、いや、約束が無くたって、断ってもおかしくない、悪くない。だって俺達は全然親しくないし。これは社交辞令なんだ。そんなこと分かってる。
 なのに。
 どうしてこんなに救われたみたいな気持ちになるんだろう。

 夏休みに入って数日後、夜、勇気を出して真田に電話をかけてみた。登録はされてはいたけど、一度もかけたことのない番号。サ行の一番初めにある名前。緊張して心臓が痛かった。けれど腹を決めて通話ボタンを押した途端にどこか吹っ切れた気持ちになった。緊張が高じて心が麻痺してしまったのかもしれないけれど。
 予期していたよりも早くニコールめで相手が出て一瞬言葉を失ってしまった。
 相手もまだ言葉を発していないが、向こうの緊張だけは伝わってくる。
「あー、もしもし、俺、分かる?です」
 敬語になってるし。
『ああ、うん。分かる分かる。登録してるから名前出てたし』
 ごもっとも。
「いや、なんていうか、今度一緒に夏休みの宿題でもしない? 分担したら楽そうかなーとか思って」
 “駄目だったらいいんだけど”と付け足そうとして、“忙しかったらいいんだけど”の方が、向こうが断りやすいだろうと思い直してそう付け足した。
「それいい案だな。うん。そうしよう」
 まさかこんなにあっさりOKが出るとは。
 そしてあっさりOKが出たことにこんなにも自分が浮かれた気持ちになるとは。
「いつにする? 俺はいつでもいいよ。真田が空いてる日でいいよ」
 ほんと、電話切った後で後悔しちゃうんじゃないかと思うくらい浮かれてた。
「えっ、そうなのか? 早速明日空いてるんだけど…」
 明日!
「いや、もっと後の方がいいんだったら後でも
「いや、明日でいい! 明日にしよう」
 なんだか急に愉快な気持ちになってきた。

 翌日、朝からとてもよく晴れていて、まあ夏だしいつもこんなふうに晴れているんだけど、特別な日に思えた。祝福されてるみたいな気持ち。
 宿題は真田の家ですることになった。電話で場所を聞いたら大体分かった。家から自転車で15分くらいの距離。その距離は、遠くにも近くにも感じる。歩くには遠い。自転車なら、まあ普通。けど夏はちょっときついかな。でも車ならすぐだ。そういう距離。真田の家までの距離。自分は今真田の家に向かっているんだと思うと、不思議な感動があった。終業式の日の帰り道、コンビニで偶然会うまでは、本当にただのクラスメイトに過ぎなかった。今だってただのクラスメイトに過ぎない。彼との距離はちっとも縮まっていない。でも、俺と彼との間の距離は掴めた。それは大きな進歩だ。距離を知ることは距離を縮めるための第一歩だ。ほんの偶然と、ちょっとした勇気で、今こんなふうに真田の家に向かっていて、そう思うと、世の中って結構甘いもんだよなァなんて浮ついた気持ちになったりして、そんな自分が微笑ましかったりもする。なんで自分が今こんなに有意義で幸福な気分なのか理由はよく分からなくて、でも俺は今確かに有意義で幸福な気分なのだった。

 深呼吸を一つしてからドアのチャイムを鳴らす。
 しばらくしてからドアが開いて真田が現れた。
「迷わなかったか?」
 初めて見る私服姿に少しだけドキドキした。(うそ。ほんとはすごくドキドキした)
「うん、大丈夫、迷わなかった」

 真田の部屋は片付き過ぎているくらい片付いていて驚いた。
「部屋、いつもこんな感じなの?」
「? うん。そうだけど」
 机の上の雑誌が置かれている。チラリと表紙を見やると、それがサッカーの雑誌であることが分かった。
「サッカー楽しい?」
 唐突な質問に真田は少し驚いたようだったが、はっきり「うん」と答えた。
「あっそ。良かったね」
 軽く返すと、真田はちょっと傷付いたみたいな顔をした。適当に返事したのは彼を傷付けるためではない。ここから話題がサッカーの方向に向かっても、話について行く自信などさっぱり無かったからだった。
「暑いからクーラーつけない?」
 初めてお邪魔した家でなんて図々しさだろうと思うけど、暑かったんだ。俺は暑いのはとても苦手で。(でも寒いのもとても苦手なんだけど。)
「ないよ」
「えっ、お前んちクーラーもないの?」
「あるよ」
「どっちだよ」
「家にはある。俺の部屋にはないんだ」
「じゃあクーラーのある部屋に移動しよう」
「駄目」
「なんで」
「使えないから」
「壊れてるのか」
「壊れてない」
「じゃなんで使えないんだよ」
「フィルターの掃除をまだしてない」
「えっ」
「7月31日に掃除するんだ。で、8月からクーラーを点けてもよくなる。そういう決まり」
「……」
 真田家にはそういう決まりがあるのか。そうか。他所の家の決まりごとに文句をつける資格はないけど、クーラー解禁するの遅過ぎじゃないかな。だってまだ8月にはなってないけどすごく暑いし。
「図書館行くか?」
 真田のその提案に、せっかく家に来たのにそれは…、と悩んだけれど、図書館の涼しさを想像して、
「行く」
 思いっきり頷いてしまった。
 初めて家に行って、それでまだ全然時間も経ってないのに、クーラー点けろだなんて注文して、でも無理で、図書館に向かっているだなんて。なんか、どうなんだろう、それは。真田の機嫌を損ねたかなあ、と今更心配になってきた。
「サッカーって一チーム何人だっけ」
 図書館に向かう途中、サッカーの話題を出したのは、さっき部屋で“サッカーって楽しい?”って訊いたとき、真田の目が輝いたからだった。
 “そんなことも知らないのか!”と驚きと呆れに満ちた台詞を投げ付けられるのを期待して、分かってて聞いたのに、
「11人」
 素で答えられた。うーん。
「じゃあ野球は?」
「9人」
「じゃあバスケは?」
「5人」
「じゃあバレ
「お前分かってて言ってるだろ!」
 怒鳴られた。今頃気付いたのか。
「この暑いのによくやるね、サッカーなんか」
「サッカー“なんか”とか言うな」
「冗談だよ」
 怒った顔が見たかっただけ。怒らせてばかりな気がするけど。
 だけど、なんだか楽しくて、こんなことばかりしていたら本気で嫌われちゃうかもしれないと心配になるんだけど、でも後でちゃんとフォローすれば大丈夫かな、なんて、そんな甘い考えもあったりして、なんだかよく分からないんだけど。真田に対してこんなふうに軽口をたたけるのが嬉しかった。彼との距離が縮まったような気持ちになった。

 図書館は寒いくらいに冷房がよく効いていた。夏休み中だから学生が多い。机に向かって熱心に勉強しているのは受験生かな。大変そうだなあ。自分も来年はあんなふうに真剣に勉強するんだろうか。なんだか実感が湧かない。自分が行きたい高校を目指して一生懸命勉強している様がどうしても想像出来なかった。今の時点では特に行きたい高校はないし。そんなに成績が悪いわけではないから、選り好みしなければ適当なレベルなところには行けるだろう。行けるところに行けばいい。何も必死で勉強してレベルの高い高校に行こうとは思えなかった。自分はいつもこうで、努力することなく生きていて、でも別にそれを恥じたことはなかった。けれど努力を惜しまないタイプの人間は凄いなあと思うし、尊敬するし、でも自分とは別世界の人間に感じる。きっと真田は、自分とは別世界の人間なんだろうと思う。よく分からないけど、彼は、サッカーに関しては俺には想像も出来ないような努力をしているんだろうと思う。

 空いている席に座って、夏休みの宿題である問題集を出し、割り振りを相談する。
 国語・英語は俺、理科・社会は真田。
 で、
「数学は?」
「半分こ。半分より前が真田で、半分より後ろが俺にしよう」
「それでいいよ」
「あー、数学が一番やだな。半分だけど」
「うん、やだ。でも、俺、友達に数学が得意っていうか頭良い奴いるから、教えてもらえるから大丈夫かな」
 そう言ってるときの表情から、その友達がいかに真田と仲が良いか伝わってくる。知りもしないその友達に少しだけ嫉妬してしまった。なんてくだらない。なんて子どもじみた気持ち。情けないよ。勝ち目もないよ。(勝ち負けの問題じゃない。)
「だったら数学全部真田がやってよ」
「嫌だ。そんなの不公平だ」
「あはは、確かに」

 ふと今何時かなと思って携帯を見ようとして、思い付いたことを言った。
「メルアド教えてよ。携帯の」
「いや、俺、メールやらないから」
「なんで?」
「なんでって言われても」
「そうか。やり方分からないんだ」
「違う! 別に必要ないし面倒だからやらないだけ」
「そうか。携帯使いこなせてないんだ」
「違う!」
「説明書読めばいいじゃん」
「うるさい!」

「他の方に迷惑ですので静かにしてもらえますか?」
 あーあ。真田のせいで図書館の人に注意されてしまった。
 居心地が悪くなったので、さっさと荷物を片付けて図書館を出る。

 真田は不機嫌そうな顔をしている。あーあ。また怒らせたかな。なんでこうなるんだろう。真田が怒りっぽいのが問題なのか、それとも俺がすぐ人を怒らせてしまうのが問題なのか、…どっちもかな。
 サッカーの話題を出したら機嫌直るかなあ。
「真田は将来サッカー選手になりたいの?」
「うん」
 きっぱりとした返事。
は? 将来の夢とかないの?」
 問い返されて言葉に詰まる。この年で確固とした将来の夢を持って、その夢に向かって努力している人間は珍しい、と思うのは俺だけではないはず。
 でも、そういう人間の前ではやっぱりどこか気後れしてしまう。
「今んとこ特にない」
 馬鹿にされたらどうしよう。つまらない人間だと思われたらどうしよう。
 真田は「そっか」と短く返しただけだった。
「お前って、すごいよなあ、なんか」
「いや、別にすごくは…」
「いや、すごいよ」

「だって俺にはサッカーしかないから」

 〜しかない、なんて言い切れるものがあるのはすごいことだ。

「真田って彼女とかいるの?」
 あまりにも唐突だった。
「はあ? なんだよ、いきなり。…いないけど」
「じゃあ好きな人は?」
「いねーよ」
「ふうん」
「なんだよ、悪いかよ」
「悪いなんて言ってないだろ」

 むやみやたらに他人の好きな人とかを知りたがる奴の気持ちはよく分からない。でも、なんだろう、やっぱり、自分が気になる人に好きな人がいるかどうかは気になるだろう、そりゃあ、それは人として当然のことだ。そんな当然のことに今初めて気付くだなんて。


 その後は調子に乗ってちょくちょく真田に電話をかけたりした。「特に用もないのにかけてくんな」と真田は言った。でも俺はかけた。特に用は無い。

「月9見てる? 面白い」
『見てない』
「見た方がいいよ。ヒロスエ可愛いから」
『うーん、ヒロスエは好きでも嫌いでもない』
「真田に似てる」
『誰が!』
「ヒロスエが」
『何言ってんのお前』
「いや、役がだよ、ヒロスエがやってる役、チヨちゃん。性格がお前に似てるんだ。気が強くて負けず嫌いで意地っ張りなんだ。でも根は純情で
『切るからな!』

 特に用は無い。でも目的はある。距離を縮めたいんだ。

『また用もないのにかけてきた…』
「なんで用がないって分かるんだよ」
『だっていつも用もなくかけてくるじゃん』
「今日は用がある」
『ほんとかよ』
「うん、今週の日曜の夜空けといて」
『なんで?』
「花火大会があるからに決まってるだろ」
『決まってるのかよ』


 そして訪れた日曜日。せっかくOKをもらえて、昨夜眠れなかったほどに張り切っていたというのに。
 目的地に着いた途端に突然の大雨に見舞われてしまった。本当に突然だったから驚いた。通り雨かと思われたが、しばらくしても雨の止む気配は一向になかった。
“本日の花火大会は雨天のために決行を見合わせていただきます。就きましては、来週の……”
 どこかから聞こえてきた放送に、集まっていた人々が口々に不満の声を洩らす。
 こんなこともあるんだなあ、と愕然としながらも諦めの気持ちが胸に広がって、残念ではあったけれど、そこまで沈む込みはしていなかった。それは隣りに真田がいたせいかもしれなかった。もしかしたら、自分は真田と一緒ならば、どんな状況でも受け入れられるのかもしれなかった。なんだか分からないのだけど、そうなんだ。『ああこれが恋の力かな?』なんて思って頷いてみて、『は? 恋?』とか思って笑えてきて、容赦無く振ってくる雨で体はびしょ濡れだったけど、悪い気はしなかったんだ。
 とりあえず雨宿りをしようと、シャッターの下りたパン屋の庇の下に避難した。二人とも無言で、ただ降り続ける雨を眺めていた。
「残念だったな」
 沈黙を破ったのは真田の方だった。
「うん、残念。花火見たかったよ」
「うん、見たかった」
「来週に延期だってな」
「うん」
「来週の日曜空けておいてよ」
「分かんねーよ」
「そっか」
「でもできたら空けとく」
「うん。また電話するから」
「うん」

 雨はまだ止まなくて、パン屋の庇の下に二人っていうシチュエーションは良いんだか悪いんだか分からなくて、でも胸がいっぱいで、気持ちが押さえられなくて、でも実はその気持ちの正体はまだよく分からない。

「俺は、お前と一緒にサッカーすることは出来ないよ。そもそも、スポーツ自体好きじゃないんだ。何故かというと疲れるから。体育だけで充分って感じ。だから、俺はお前とサッカーをする喜びとか痛みとかそういうものを分かち合うことは出来ない」
 いきなりそんなことを言い出した俺に、真田は驚いた様子だった。
「でも俺はお前とクラス一緒だし、家結構近いしさ。一緒に遊んだりとか、一緒に宿題やったりとか、そういうのは出来るわけ」
 構わず喋り続ける俺の意図を計りかね、真田はただ不審そうな目で俺を見つめていた。

「つまり何が言いたいのかというと、真田と仲良くしたいってことなんだ」

 その台詞に真田は唖然としたようだった。

「友達になりたいんだよ、真田と」

 なんでこんなに必死になっているんだろう。
 なんでこんなに必死になってるんだかさっぱり分からん。
 人を好きになるってなんてかっこ悪いんだろう。なんて他愛無いんだろう。
 でも今俺はとても必死で。

 なんて逞しいんだろう。自分の中にこんな逞しさがあるなんて知らなかった。

「そ、そういうこと口にするか普通」
 あ、赤くなってるし。
「いや、だって、真田って鈍そうだから、口にして言わないと分かってもらえないと思って」
「…! 鈍そう!?」
 まあ、そこが可愛いんだけど。
 心の中だけで思っておいた。口にしたら怒られそうだから。

「っていうか。
 なんていうかさ、その、友達になりたいって言われても、いや、なんていうか、俺とって既に友達じゃん…、って俺は思ってるんだけど。…いや、うん、……違うのか?」

 ……ああ、
 ああ…、

「真田ってほんとに可愛いなあ」

 心の中だけで思っておくつもりがつい口に出た。

 案の定怒鳴られたけど、まあいっか。
 まだ雨は止まないけど、それも、まあいっか。





 

・・・あの子が隣りにいるとそれだけでもうどこか満たされちゃってだから他のことは
もうどうでもいい気になっちゃって、うーん、それって、やっぱり・・・







Aug.6,2001


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