運命の隕石が降ってきて、脳天を直撃して、体は砕け散ったけれど心は此処に残ったの。
黒くて白い小鳥さんが私の破片を咥えてあなたのもとに運んだの。でもあなたは居留守を使いました。







 籠の中の文鳥は小さくて愛らしかった。けれどどこかおどおどしていた。なんて純粋な存在だろう、と英士は思う。
「お前らってほんとよくケンカするよな」
 文鳥は止まり木の右端に寄っていた。少し驚かせてやろう、という小さいけれど明確な悪意をもって、英士は籠を指で突付いた。文鳥は慌てて止まり木を左に移動する。英士は、また文鳥のすぐ近くを指で突付く。籠が少し揺れ、文鳥は止まり木の上をひょこひょこと右へ左へ忙しなく移動する。その様子は滑稽で愛しく、英士の嗜虐心を刺激した。
「どうせまたお前が一馬になんかしたんだろ。なんで英士って一馬に対してそう酷いわけ? 意地悪して相手の気を引こうなんて小学校低学年レベルだよ。歪んだ愛情表現しか出来ない奴ってやだね〜」
 ピンク色のくちばしと足がか弱くて可愛らしい。くりくりとした丸い目玉からは何の感情も感じられない。けれど今確かにこの文鳥はとても怯えている。英士は籠に顔を近付けて、文鳥をじっと見た。文鳥は金縛りにあったように動かなくなった。『名前は?』文鳥に心の中で訊いてみる。当然ながら答えは返って来なかった。
「全く一馬も一馬だよな。どんな仕打ちを受けても英士から離れようとしないんだもんなあ。彼女でも作ればいいのにさあ。知ってる? あいつ割ともてるんだぜ。誕生日に学校の女子からプレゼント結構貰ってたし」
 英士が両手で籠を揺らすと、文鳥はバサバサと籠の中をうるさく飛び回った。
「人んちの鳥を虐めるなよ!」
 結人は見ていた雑誌を丸めて英士の頭を叩いた。
「お〜お〜、良い音がするなあ」
「いったいなあ、もう」
「自業自得だろ。動物虐待してんなよ。ていうかお前ぜんっぜん人の話聞いてないだろ」
「ばれたか」
「ばれたか、じゃねーよっ、バカ。むかつくっ」
 結人は英士に向かって文句を言った後、鳥籠を手で撫でながら、文鳥に話しかけた。
「おお可哀相に。英士に取って食われるところだったね〜」
「大げさだなあ」
「死んでしまえ英士! この虐待魔!」
 英士は謝罪の言葉を口にしないどころか少しも反省の色を見せず、微笑みすら浮かべながら鳥籠の中の文鳥を見遣った。
「可愛いなあ。俺も飼おうかな」
「絶対止めとけ」
 即答した結人に、そうだね、と英士は返した。
「手乗り文鳥にちょっかい出すのと同じような感覚で一馬と付き合ってるんなら別れた方がいいんじゃねーの」
 結人のその台詞は思いも寄らないもので、驚いた英士は一瞬言葉を失いかけたが、しばらくしてから落ち着いた様子で言い返す。
「いくら俺でも手乗り文鳥とセックスは出来ないよ」
 結人は苦々しい気持ちでいっぱいになって舌打ちをした。
「こっちは真面目に忠告してやってんのによ」
「結人に忠告されて改心出来るんならもうとっくの昔に改心してる」
「無駄な忠告ってわけだ」
「結人には感謝してるよ」
「口で言うのは簡単だ」
「ああ言えばこう言うね。まあ人のことは言えないけど?」
「いつか愛想尽かされるぞ」
「大丈夫でしょ」
「自信があるんだな」
 勿論これは皮肉だ。
「ないよ」
 自信なんて微塵もない。英士ははっきりとそう答えた。

 英士と一馬は依然としてケンカをしたままで、お互いに連絡しないうちに三日間が過ぎた。
 四日目、夕方、空は薔薇色で、学校帰りの英士はどこか不吉な気持ちになった。地獄のようだ、と彼は思う。きっと地獄はこんな色をしているだろう。血のような花のような人の心を惑わす色をしている。そしてきっと、良い匂いがするに違いない。理想の母親のような、懐かしくて、嗅ぐと涙が出てきそうな、そんな匂い。地獄というのはきっとそういうところなのだと思う。
 そんなことを考えているときに携帯電話が鳴り出し、英士は我に返った。一馬からだということはディスプレイを確認しなくても着信音ですぐ分かる。もしも、着信音で判断出来るよう設定していなかったとしても、一馬からかかってくれば一馬からだと分かる、そんな自信が英士にはあった。
 話があるから家に行ってもいいか、と一馬が言い、勝手にすれば、と答えて英士はすぐに通話終了ボタンを押した。
 英士が家に着くと、家の前で一馬が待っていた。
「上がって待ってればいいのに」
 労る様子は少しもなく、責めるような口調で英士が言うと、一馬は静かに首を振った。
「謝りに来ただけだから」
 弱々しい口調で一馬が言った。
 本当は悪いと思ってないくせに、と英士は心の中で呟く。ケンカの原因は英士にあった。それは今回に限ったことでなくいつだって原因は英士が作る。“作る”という表現がしっくりとくる。英士は意図的に一馬を怒らせ傷付ける。しかし謝るのは決まって一馬の方だった。英士からは絶対に謝らない。それを一馬は分かっていた。どちらかが謝らなくては、仲直りをすることは出来ない。一馬は、自分の非を認めてもいないのに謝るのは嫌いだった。憎んでいた、と言ってもいいかもしれない。とりあえず場を丸く治めるために、反省もしていないのに口だけで謝罪するなんて間違っている。誠意というものが欠けているじゃないか。彼はそういうところでとても潔癖だった。しかし、英士との間においては、その潔癖さを貫くことは出来なかった。悪いと思っていないのに謝るなんて、一馬にとっては酷い屈辱だろう。自分で自分が許せなくて苦しんでいることだろう。それでもそうする一馬を前に、英士はいつも喜びと失望を同じ分量だけ感じていた。
 いつもなら、一馬が一言謝りさえすれば笑顔(それは表面だけの笑顔ではあったが)を見せる英士だったが、今回は違った。
「ほんとに悪いと思ってるなら土下座してよ。跪いて地面に額を付けて許しを乞えよ」
 英士の言葉に、俯いていた一馬が弾かれたように顔を上げる。
 不気味なほどの速さで雲が流れていた。あたりは一面真っ赤だった。赤くて静かな夕方。地獄のようだ。英士は軽い目眩を感じた。
「それで英士の気が済むのか?」
 はっきりとした口調で一馬が訊いた。英士の顔色を窺うような様子ではなかった。一馬の目からはどんな表情も読み取れず、ふと英士は結人の家の文鳥を思い出し背筋がぞっとするのを感じた。
 一馬は英士の答えを待ち続けたが、英士はいつまで経っても口を開かなかった。
 突然、一馬がバッグを開け、その中から出した紙袋を英士に押し付ける。そんなに大きくはないが決して小さいとも言えないその紙袋は結構な重さだった。
 訝しい気持ちで英士はそれを受け取る。
「それ、今まで英士に貰ったやつ。誕生日プレゼントとかCDとか本とかその他。食べ物とかは返せないけど、とりあえず返せるやつは返す」
 一体何のつもりだ、という気持ちを込めて英士が一馬を見つめると、一馬は目を逸らせた。
「取り消すから。謝ったこと取り消す。今日のだけじゃなくて、今まで、英士とケンカして英士に『ごめんなさい』とか言ったけど、その『ごめんなさい』、全部取り消す。だって、俺は悪くない。全然悪くないとは言えないけど、でもそんなに悪くない。英士の方が悪い。俺、ほんとはそう思ってる」
 英士は何も言い返すことなくただ黙って聞いていた。
「決めた。英士とは別れる」
「そう」
「それだけ?」
「いつか、そう遠くない未来に、こういう日が来るだろうってずっと思ってたよ」
 どこか懇願するような口調で訊いた一馬に、英士は淡々とした様子で答える。
 一馬は一瞬絶望的な表情を浮かべた。英士はその時ぼんやりと地面を見つめていた。

 日没、夕方が終わろうとしていた。もう夜になる。そう思うと、英士はこんな状況だというのに、どこか救われたような気持ちになった。
「一発殴らせて」
 不穏な一馬の発言に、
「何発でも殴っていいよ」
 英士は相変わらず淡々と答えた。
 てっきり思いきり拳で殴られるものだろうと思って、歯を食いしばったが、軽く頬を掌で打たれただけで済み、その予想外の衝撃の小ささに英士は驚いた。
 英士はそっと自分の頬に手を当てる。
 一馬は何も言わずに英士に背を向けて去って行った。

 駅に着いた一馬は、携帯電話を取り出し、着信履歴から結人の名前を探した。しばらくディスプレイを眺めた後、待ち受け画面に戻して携帯電話を仕舞った。
 一人でも大丈夫、一人でも大丈夫、何度も自分に言い聞かせた。電車が来る。家に帰れば気持ちが落ち着くはずだ。一馬は奥歯をきつく噛み合わせ、手を固く握り締めた。少し気を緩めれば泣いてしまいそうだった。

 学校から帰った結人は、いつもより早く夕飯を済ませ、寝転がってテレビを見ていた。ちょうどいいところで携帯電話が鳴り出す。面倒だったので無視するが、なかなか着信音は止まない。なんてしつこい奴だ、と思いつつも結人はテレビから目を離さなかった。着信音が止み、そこでちょうどテレビはCMに入った。一体誰からか確かめようと携帯電話に手を伸ばそうとしたところでまた着信音が鳴り始め、結人はビクリとした。このしつこさ、きっと英士からだ。結人の予想は的中した。
「何だよ、もう」
『いるんならさっさと出てよ』
「その言い様はなんだ!」
『今から行く。今日泊めてね』
「えっ、ちょ、
 そこで切れた。英士の強引さに結人は一瞬唖然としたが(強引さにかけては結人も人のことを言えた立場ではないのだが)、まあいいかと思い、CMが終わり再開された番組を見ながら英士が来るのを待った。

 英士から話を聞いた結人は、さも呆れた様子でため息を吐いた。
「呆れないでよ。傷心なんだよ、俺は」
 そう言った英士からは少しも傷付いた様子は見受けられず、結人はさらに呆れた。
「それにしても、お前って一馬となんかあるとすぐ俺んとこ来るけど、一馬はどうしてるんだろうな」
「他に誰にも相談出来ないだろうし、一人で悶々と悩んでるんじゃない? あ、ぬいぐるみに話しかけてたりして。『聞いてくれよ。英士ってば酷いんだ…』とか言って」
 悪い冗談だ、と結人は思ったが、一馬がぬいぐるみに愚痴っている様を思い浮かべて、つい笑ってしまった。
「わははは、英士、やめろって。お前ってマジで最悪だな!」
「ほんと一馬って可愛いよね。本当に、一馬は…、
 あれは俺の生きる希望そのものだ」
 そして絶望そのものでもある、
 英士は心の中で付け足した。
 突っ込むのも面倒で、結人はただ苦笑するしかなかった。
「ねえ結人、地獄ってどんなところだと思う?」
 突然そんなことを訊く英士の意図が分からずに、結人は、はあ? とだけ返した。
「俺の思う地獄っていうのはね、初秋の夕方みたいなの。すごく綺麗なのにどこか気持ちの悪い薔薇色なんだ。肌寒いのに暖かくて、眩しくて明るくてでも暗い。懐かしい匂いがして、寂しい雰囲気が立ち込めていて、嬉しくて悲しい。そこには良い思い出とか悪い思い出とか大事なものとか大事じゃないものとか捨てたいのに捨てられないものとか何だかよく分からないものとかそういう色々なものがたくさん溢れていて、その中で溺れ死んでしまいそうになる。でもそのたくさんのものは、目には見えないんだ。すごく混沌とした世界で、その世界の真ん中で、俺は本当にどうすればいいのか分からなくて混乱してる。すごく息苦しい。でも心地良くもある。
 一馬といると、地獄にいるみたいな気持ちになるんだ」

「後悔してるのか?」

 それまでただ黙って英士の話を聞いていた結人から出た問い掛け。具体的に何についての後悔を訊いているのかいまいち定かでない。何についての後悔だと受け止めればいいのだろう、と英士は考える。今まで自分が一馬に対して取ってきた態度についてか。それとも、彼と友情の一線を越えて付き合い始めたことについてか。それとももっと前の段階に話は戻って、そもそも彼を好きになったことについてか。それとも、もっと前か、彼と出会ったこと自体を、後悔してるのか、と、結人は自分に訊いているのか。それとも、それらを含む思い当たり得るあらゆることについてかもしれない。
 英士は訊き返すことはせずに答える。
「後悔だらけさ。いちいち後悔してたらキリがない。でも、もしも、やり直せるとしたら、今度は、もっと、違ったやり方で…、」

一番自然で一番真っ当で一番健全な方法はどこにあるんだろう。
もしその方法を見付けられたなら、僕は救われるんだろうか。


 結人が呆れたように、けれど親愛の気持ちを込めて優しく、まるで独り言のように英士に言う。
「どうして大切なものを大切に出来ないのかね」
「どうしてだと思う?」
「バカだから」
「身も蓋もないね」
 英士は微笑んだ。久しぶりに自分がとても穏やかで優しい気持ちになっていることに気が付いた。

 それから数日後、選抜の練習日、一馬は英士と顔を合わせても挨拶すらしなかった。
「ただでさえツリ目なのに、そんなに目ぇ吊り上げちゃって怖いね〜」
 結人が冗談ぽく一馬に話しかけると、一馬は、うるさい、と短く答えた。ウワこわ! と一馬をからかってから、結人はなるべく軽い調子を崩さないままで、
「あー、そういやさ、英士のことなんだけどさ…」
 と何気ないふうを装って、彼なりに慎重に話題を変えた。英士の名前が出た途端に一馬の表情がさらに強張り、結人は少し後悔したが、続けて話す。
「まあ、なんだ、さっさと仲直りしろよ。英士もほんとは仲直りしたくてしょうがないんだけど、心がとてつもなーく狭くてプライドがものすごーく高い人間だから『ほんとは一馬と仲良くしたいんだよー』とか言えないの。可哀相な奴なんだよ」
 一馬の緊張を解こうと結人はひたすら明るく話したが、一馬の表情は少しも緩まなかった。
「俺は英士のこと、少しも可哀相だとは思わない」
 そう言ったときの一馬の声は、もう少し突付けば次の瞬間には爆発してしまうのではないかと思うほど、感情を無理矢理抑え付けて発しているような低さだった。結人は思わず息を呑む。
「結人には、心配ばっかりかけて悪いと思ってるよ。でも、これは、このことは、俺と英士の問題なんだ」
 これ以上話し続けると、泣いてしまうと一馬は思った。
 結人は何も返す言葉が見つからず、「そっか」とだけ返した。
「心配かけてごめん、結人。それで、心配してくれてありがとう」
「ああもう、なんだよ、もう、ほんとお前って水臭いっていうかなんていうか! 気にすんなって、もう」
 結人が一馬の頭を掻き回すように乱暴に撫でると、一馬は、よせよ、と言いながら一粒だけ涙を流した。

 練習が終わり、一人でさっさと帰って行こうとする一馬をぼんやりと眺める英士の頭を結人が軽く小突いた。
「追いかけないわけ?」
「追いかけてどうするわけ?」
「『君は俺の生きる希望そのものなんだ』とか言えばいいんじゃねーの」
 その言葉に英士は思わず吹き出した。
「何笑ってんだよ、お前が自分で言ったんだろうが」
「いや、我ながら相当アレだなあと思って」
「なんだ、分かってんじゃん」
「まあね」
「追いかければ? で、アレなこと言って呆れられてこいよ」
「ははははは。そうしようかな」
 英士は、じゃあ行くよ、と結人に背を向けたが、ふと思い出したように振り返った。
「…? なに?」
 不思議そうに訊く結人に、英士は少し考えてから口を開く。
「俺はお前が羨ましいよ」
 英士の台詞に、結人は言葉を失った。
「俺は、結人になりたかった」
 言い終わると英士は再び結人に背を向け、足早に一馬を追いかけた。

 英士は一馬の後ろ姿を見付けると、全力で走ってなんとか追いつき、一馬の腕を掴んだ。
「…英士!」
 一馬は酷く驚き戸惑いながらも、英士の手を振り解こうとした。
「離せよ」
「嫌だ、絶対離さない!」
 英士は声を荒げて、一馬の腕を掴む力を強めた。幸い人通りの少ない路地でのことで、言い争う様を誰かに見られることはなかった。
「英士、離せよ。もう英士とは別れたんだ」
「嫌だ、別れない」
「別れるって言ったらお前『そう』とか『そんな気はしてた』とか言ったじゃん!」
「全部取り消す。死んでも別れない」
 この前の淡々とした様子の英士とはまるで別人で、感情を剥き出しにした態度に一馬は恐ろしさを感じた。
「じゃあ、別れるとか別れないとかそういう話はまた後にしよう。英士、俺達ちょっと距離を置こうよ。だって側に居てもお互い辛い思いをするだけだし、だから、しばらく離れて、俺も英士ももっと冷静になって
「嫌だ」
 英士はぴしゃりと言い放った。
「絶対嫌だ。距離なんか置かない。俺は充分冷静だよ」
「嘘ばっかり。どこが冷静だよ。お願い離して。痛いし」
「どうして離れて行こうとするの?」
「分かったから、英士、お願い、今日は帰らせて。今度ちゃんと話し合おう」
「今度っていつ? そうやって逃げる気なんでしょ。俺から逃げないでよ。どんなに逃げても追いかけるよ」
「…脅しみたいだな」
「脅しだよ。俺から逃げないで。俺を拒絶するのなら、お前の人生を無茶苦茶にしてやる。サッカーどころか、生きることさえ嫌になるようにしてやる」
 言いながら、英士はどんどん自分の心と自分の言葉がかけ離れていくのを感じていた。こんなのが、本音のわけがない。
「それで英士の気が済むのか?」
 ここで何か答えなければ、もう決定的に、一馬は自分を捨ててしまうだろう。英士はそう思った。
「冗談だよ、一馬、冗談なんだ、全部」
 本当に何もかもが冗談のように思えてきて、英士は笑ってしまいそうになった。でもここで本当に笑ってしまったら、先に待っているのは深い絶望だけな気がした。
「俺のこと、嫌いなのか?」
 震える声で一馬が訊いた。
「この世で一番嫌いだよ」
 英士はそう答えたが、一馬の顔を見ることは出来なかった。

「でも、この世で一番好きだ。

 お前は、俺なんだ」

 英士の言っていることが分からずに、一馬は戸惑った。

「愛情も憎悪も、あらゆる感情を一馬にだけ捧げたよ。物は返せても心は返せないだろう? 何もかもお前にあげたんだ。本当に、何もかもだよ。だから、お前は俺なんだ」

「じゃあ、お前は誰なんだよ」

 そう問われたとき、英士は突然、蝉の抜け殻のことを思い出した。あれは小学校低学年のことだ。蝉の抜け殻を見付けて来た一馬が、英士と結人に嬉しそうにそれを見せた。結人が手に取って見ているとき、力を入れ過ぎたせいでそれを潰してしまった。一馬は真っ青になり、ひどく弱々しい声で、別にいいや、とだけ言った。

「英士の言ってること、よく分かんないよ。だって俺は英士じゃない。英士にはなれない。…訳分かんねーよ…」

 ひどく弱々しい声だった。


一番自然で一番真っ当で一番健全な方法はどこにあるんだろう。
どうすれば傷付けずに済むのか。誤解を招かずに済むのか。
どうすれば、もっと、暖かくて、穏やかで、優しい場所に辿り着けるんだろう。



「お前は俺なんだ」

 気違い染みた台詞を繰り返す。

どうしてこんなふうにしか出来ないんだろう。





 二人して黙り込んで、道を歩いた。夕方、空はひたすら赤い。
 沈黙を破ったのは一馬の方だった。

「なあ、英士、覚えてる? 小一のときなんだけど、俺が蝉の抜け殻見付けて、大事にしてたんだけど、結人が不注意でそれを潰しちゃったんだ。俺すごいショックでさあ。でも次の日の夜、結人が家に来て、俺にどこかで新しく見付けた蝉の抜け殻をくれたんだ。あれ、英士が探してくれたんだってな。でも、結人が探したことにしろって言ったんだって? ずっとずっと、英士にお礼を言いたかったよ」
「そんなことあったかな。もう忘れたよ」
「あったんだよ。でさ、俺感動して、英士ってなんて優しいんだろうって、すごく思ったんだ。英士は忘れても俺は忘れないよ。ずっと、多分一生忘れない。
 本当に、すごくすごく嬉しくて…、きっと俺は、あのときからお前のことを…







「結人、ほら、これ」
「セミのぬけがら!」
「うん、一馬にわたしてあげな」
「英士がわたさないのか?」
「結人がさがしてきたことにして結人がわたすんだ」
「いいの?」
「うん、ちゃんとなかなおりするんだよ」
「ありがとう英士! 一馬きっとよろこぶだろうな」
「よろこぶといいね」










 くだらない、英士はそう思った。
(なんてくだらないんだ。そんな話を今更引っ張り出してくるなんて。吐き気がする)

「俺はもっとずっと前から一馬のことが好きだったけどね」
「初めて会ったときからとか言うなよ」
「もっと前さ。生まれる前から好きだったんだ」
「……バカじゃねーの」
 そう言われて、英士は、本当にそうだ、と納得する。
(そうだ、バカだ。本当に、救いようのないバカで、だから、最も正しい方法なんて、そんなの、一生かかったって見付けられない)

「そういえば、こないだ、突っ返されたじゃない、俺が今までお前にあげたやつ。その中に入ってなかったところをみると、お前のことだから後生大事に机の引出しにでも仕舞ってるんでしょ、蝉の抜け殻」
「うるせーよ」
 図星だったのか一馬は照れて、ぶっきらぼうに言葉を返した。そんな一馬の様子に英士は声を出して笑った。
 人のことなど言えないけれど、
「一馬ってほんとバカだね」
(しかも、救いようがないほどの)
「お前にだけは言われたくねーよ!」
 一馬が怒鳴り、英士はさらに愉快そうに笑う。けれど笑っている途中で急に泣きたくなって、英士はポロポロと涙を零した。
「なんでお前が泣くんだよ…」
 それは責めるような口調ではなく。
 一馬はどうしようかと少し迷った後、小さな子どもをあやすように英士の頭を撫でた。




Oct.6,2001






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