falling

 短い冬休みの終盤。明後日から三学期が始まる。
 結人を家に迎え入れた一馬は、結人がいやに丁寧な物腰(家に上がるときいつもだったら「おじゃましま〜す」と言うのに今日彼は「失礼します」と言った。しかも脱いだ靴を神経質そうな仕草できっちりと揃えていた。いつもだったらそんなことはしないのに)で、かつ、たまに一馬の様子をちらちらと窺っているし、さらに決定的なことには手土産(しかも一馬の好物のりんごジュースとたまごサンドという分かりやすい組み合わせ。もうこれは一馬の機嫌を取ろうとしているのが見え見えだ)を持って来ていたので、ああこれは何か頼まれるな、と咄嗟に思ったのだった。何かというのが何であるのかは、決して鋭いわけではない一馬にも容易に察しがついた。もうすぐ休みが明けるという時期なのだから、そう、あれだ。
「俺に宿題を手伝わせようって魂胆だな」
 部屋に入ってすぐ、一馬は不満と不審と呆れを一遍に込めた眼差しで結人をじろりと見遣った。
「魂胆だなんて、そんな! いやいや! 参りましたなあ」
 結人は誤魔化すようにへらへらと笑っている。
 一馬は今まさに、夏休みの終わり頃(正確にいうと7月29日)のことを色鮮やかに回想中だった。そのときも結人はこんなふうにして一馬の家を分かりやすい手土産を持って訪れ、普段からは想像出来ないような丁寧な態度を取りつつこちらの様子を窺っていたのである。見え見えだったので、結人に言われる前に「宿題手伝ってって言うんだろ…」と呆れたように問うと、結人は「大丈夫、大丈夫、一個だけだから」と前置きした後、良かったら自由研究を丸々写させてほしいんですけど〜、といくらか遠慮した態度で内容的には大胆な申し出をしてきたである。主要五科目のワーク類はクラスの友人に、家庭科の課題(何か一つ手作りのものを提出)は母親に、技術の課題(やはり何か一つ手作りのものを提出)は兄に、美術の課題(選挙ポスター)は姉に頼る算段で抜かり無かったのだが、自由研究と読書感想文はどうにもならない。そんなわけで、結人は一馬の家を訪れたわけである。ちなみに読書感想文は既に英士に写させてもらった後だった。一馬は自分がやった自由研究(調査や実験を行うのは面倒だったので、図書館で本を何冊か借りて環境問題について調べて書いた。独自性があるわけでもすごく手間がかかったわけでもないが、上手くまとまっていると自分でも思っていたし、彼なりに真面目に取り組んだつもりである)をあっさり結人に写されるのは少々どころではなく不条理に思えてならなかったのだが、結人に何度も何度も「頼むよ〜」と手を合わせられ、「ほらほらお前の好きなりんごジュースとたまごサンドだよ〜」と手土産をちらつかせられて、そんな手土産ははっきりいってどうでも良かったのだが、懇願されると断るに断れない。しかも頼んでいるのは結人だ。断ったとしても断り切れるような相手ではなかった。そんなことはもう最初から分かっていたのだが、あまりにも簡単に「じゃあどうぞ」と自由研究を渡すというのはどうも引っ掛かって出来なかったのである。まあ最終的に一馬はいかにも渋々といった感じで結人に自由研究を写させてやったのだが。ああ腹立つなあと思いながら、このことをネタにしばらくは結人よりも優位に立てるのではないかと思うと、一馬は少しだけ嬉しいような気持ちにもなったものだ。ところで結局結人が夏休みの宿題のうち自力でやったのは習字だけであった(字はさすがにばれるだろうという危惧からである。結人はひどい癖字なのだ)。ちなみにその作品は、8月31日の夜に一発書きをしたものだった。

「で? 俺は何をすればいいわけ?」
「夏休みに読書感想文書いただろ? それを写させてほしいんだよ」
「読書感想文? 冬休みなのにそんな宿題が出てるのか?」
「そうなんだよ! 全く嫌んなるよなあ」
 結人のクラスの国語を担当している教師(熟年男性)は、最近の若者たちの活字離れを日頃から大いに嘆いていた。そんな彼が、冬休みに生徒に課したのが読書感想文である。「若いうちにもっと本を読んでもっと感受性を豊かに!」そんなことを何の衒いも無く恍惚とした表情すら浮かべながら言っていた国語教師を思って、結人はげんなりした。生徒思いと言えば生徒思いで、教育熱心、そして自分自身が学ぶことにも余念が無い、良い先生と言えば良い先生だった。しかし生徒のためを思っての課題だったとしても、生徒にとってはありがた迷惑で、苦痛以外の何物でもなかった。
「夏休みの読書感想文か…、まあ、返って来たことには返って来たと思うんだけど、どこにあるのか分かんねーよ…」
 一馬が、読書感想文を書いた原稿用紙5枚の行方を頭の中であやふやに追いながら言うと、結人は「えーっ!」と驚きと不満を露にした声を上げた。
「ああ、年末の大掃除のときに捨てちゃったかも…。いや、捨ててない気もする…」
「どっちだよ!」
「分かんねーよ」
「別に今年のじゃなくてもいいよ。もう小学校のときのでもいいから」
「そんなの余計どこにあるか分かんねーよ」
「ちゃんと管理しとけよ! 信じらんねー奴!」
「お前が言うな!」
 ああ予定が狂った…と力無く呟きながら、結人はごろんと横になる。
「部屋のどこかにはある気がするけど、探すのが面倒だよな…」
 一馬は机の引出しを、ここに無いだろうなあなんて思いながら開けてみたりしていた。
「もーいーよ」
 諦めてしまって寝転がってる結人に、「なあ、英士に訊いてみるっていうのは?」と一馬は遠慮がちな口調で、しかしその口調とは対照的な押し付けがましさを瞳に湛えながら提案した。
「でも、夏休みのやつは英士の写したんだぜ?」
「だから去年のとか。取ってあるかもしれないじゃん」
「…ああ、そっか」
 英士のことだから、念の為にということできちんと置いてあるかもしれない、しかし、英士のことだから、もういらないと判断して颯爽と処分しているかもしれない。それは本人に訊いてみなければ分からないことだ。
「それじゃ今から英士に電話して、あるって言ったら行ってみようかな」
 結人にはもうそうするしかないように思え、抗えない運命に逆らえないような気持ちすら抱きながら携帯電話を取り出した。
「あ、結人が英士んち行くなら俺も行こっと」
 独り言のように一馬が小さな声で言った。
「ふ〜ん?」
 着信履歴から英士の名前を探す手を止めて、結人が一馬を見遣って意味深に微笑むと、一馬はあからさまに慌てた。
「な、なんだよっ。別にいーだろ。邪魔なんかしねーし、あと、えーと、ああ、そうだ、英士に借りてた本があって、それをついでに返しときたいし」
 過剰に反応する一馬を見ながら、結人は微笑ましさなんかはほとんど感じず、呆れと少々のむかつきを覚えて鼻白んだ。

 英士に電話した結人は大いに驚くことになる。電話した要件をすっかり忘れてしまうほどに。
「えっ、潤が来てんの!? まじで!?」
 携帯電話を一旦少し離して、一馬の方を向き、「おいおい、昨夜から潤が来てるんだってさ」と伝える。一馬は驚き、どう答えたらいいのか分からず、とりあえず一回頷いてみせた。
「え? ああ、うん、そう、一馬もいるよ。うん、うん、ああ、分かった。行く行く、今から行く。そんじゃ」
 早々に電話を切り、結人はいくらか興奮したような様子で改めて一馬に向き直った。
「昨夜から潤が来てるんだってさ!」
 結人は電話中に言ったのと同じことを繰り返す。それはもう分かったよ、と思いながらもそんなふうに言い返すことは出来ずに、一馬はただ曖昧に頷いた。
「驚くよな〜、何の予告も無くだもんな。なんかいきなり来たらしくて英士もびっくりしてんだってさ。で、ちょうど英士も今から俺らに電話しようとしてたところだったんだって。潤が来てるから遊びに来ないかって」
 ちょうど今から電話しようとしてたところだった? それは本当なんだろうか。本当は、結人と自分抜きで過ごしたいのかもしれないじゃないか。一馬はふとそう思ったが口に出しはしなかった。
「会えるの楽しみだよな〜」
 結人は今から英士の家に行くことに何の迷いもないふうに少し前にハンガーに掛けたばかりのダウンジャケットを取って、外出する準備をしている。読書感想文のことはすっかり失念しているようだった。
「うん、楽しみだな」
 心此処に有らず、といった感じで一馬が相槌を打つ。確かに潤慶に会うのは楽しみといえば楽しみだった。それは嘘ではない。けれど一馬は潤慶に対してどこか気後れしてしまうのだった。降って湧いたような潤慶との面会に、嬉しさよりも戸惑いの方を強く感じずにはいられなかった。

 英士の家に着き、チャイムを鳴らすと、英士ではなく潤慶が結人と一馬を迎えた。
「よ! 潤慶! 相変わらず元気そうだな〜」
「元気だよ。結人には負けるけどね」
 親しげな様子で、潤慶は結人の肩にポンと手を置いた。
「よう」
 結人の後ろに隠れるようにして(実際は、結人よりも一馬の方が大きいために隠れることは物理的に不可能なのだが)一馬が挨拶をすると、潤慶は笑顔で「一馬も元気そうだね」と返した。
「ああもう何照れてるわけ!」
 結人は自分の後ろでぐずついている一馬の腕を引っ張って、自分の隣りに来させた。
「ちょっと見ない間になんか大きくなったね?」
 潤慶は一馬の頭に手を置いた。まるで大人が小さな子供にするようなその行動に一馬は少しだけかちんときた。確かに潤慶は自分達よりも学年にしたら一つ上だが、それはほんの小さな差でしかないように思える。背だって自分とほぼ変わらないのに。一馬はどうにも不満な気持ちだった。
「結人はあんまり変わってないねー」
 潤慶は一馬の頭に乗せていた手を今度は結人の頭に乗せ、髪をわしゃわしゃと掻き回した。
「うるせーよ! ていうかぐしゃぐしゃにすんな!」
 結人が潤慶の手を払い除ける。
 潤慶と結人のやり取りを見ながら、こいつらまるで兄弟みたいだな、などと一馬は思い、どこか取り残されたような気持ちになった。
「そんなとこで立ち話してないでさっさと上がれば?」
 見かねた英士が玄関に現れ、呆れたような表情で三人に中に入るよう促した。

 暖房の効いた暖かい部屋で優雅に紅茶を飲みながら、彼らは色んなことを話した。話はいつになっても尽きることが無さそうに思えたが、結人と一馬が訪れてから一時間ほど経った頃に、潤慶は「せっかく結人と一馬も来たんだし、ずっと家に篭ってるのもなんだから外出しない?」と提案した。英士と一馬は「まあ別にそれでもいいよ」と消極的な同意を示したのだが、結人は「なんでこんな寒い中わざわざ外に出ようとするんだよ〜! 嫌だ!」と積極的に反対した。
「だーめ! 外出するといったらするの。3対1だもん。多数決で決まりだよ」
 潤慶はそう言って、結人の鼻を軽く摘んだ。英士と一馬の消極的な同意は賛成の票としてばっちり数えられたらしい。
「一馬はどこか行きたいとこある?」
 まだ納得行かずに文句を垂れている結人を見て見ぬ振りして、潤慶は一馬に訊いた。まず自分に話を振られるとは思ってもいなかった一馬は途端に戸惑う。
「えーと…、…海? とか?」
 ふと思い浮かんだ場所を口にすると、結人はすぐさま「反対!」と叫んだ。一馬はそこで、自分の言ったことを改めて思い返し、やっぱ海は駄目だよな…などと後悔したのだが、潤慶は「冬の海か。それはそれでいいかもね。うん、じゃあそうしよう」と満足そうに頷いた。英士はといえば、先程の潤慶の提案に対しての反応と全く同じように「まあ別にそれでもいいよ」と消極的な同意を示した。
「俺は海なんて反対だ! こんな真冬に海に行ってどーする。ただただ寒いだけだぞ? そうだろ!?」
 どうせなら無難にカラオケとかにしようじゃないかと結人が提案しかけたところで潤慶はまた結人の鼻を摘み、
「また3対1。多数決で決まりだね」
と言って綺麗に微笑んでみせたのだった。



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