しらばっくれるなよ。

feel so good 


 夜中に突然目が覚める。ひどい、とてもひどい夢を見ていたはずだった。そのせいで若菜は起きてしまったのだ。でもどんな夢だったのか思い出せない。つい数秒前までは夢の中だったのに。そこがどんな世界だったのか、思い出そうとすればするほど世界は白く霞んでく。一体自分はどんな夢を見ていたんだろう、と想像してみる。誰かに殺されたりとか、逆に、誰かを殺したりとか、そういうのだろうか。いや、そういう類のものでない。血はない、死もない、痛みや裏切りも。もっと何でもないかんじ、日常的で、でも非日常的で、具体的で、抽象的。
 つまり、全然思い出せないわけで。
「…あ〜、クソ、ムカつく」
 わざわざ声に出して言ったら余計気分が悪くなるかと思ったが、そうでもなかった。かといってマシになったわけでもなく、なんにも変わらない。
 若菜は、何故か、郭のことを思った。郭のことを思っても、気は晴れない、紛れない、逆にさらに気分が悪くなるくらいだ。眠れる気は全然しないが、若菜はとりあえず目を閉じてみる。瞼の裏で郭が笑った。普通に笑っているはずなのに、見下されているように感じて、心が冷えた。枕を外してベッドから落とし、代わりに自分の腕を頭の下に敷いた。こっちの方が眠りやすそうだと思ったのも束の間、やっぱり枕が要ると思い直し、俺何やってんだろ…と思いながら、落とした枕を拾おうとしているときだった。机の上で携帯が鳴った。メールの着信音。こんな夜中に誰だ? いや、迷惑メールか。と、眉を顰める若菜。もっともらしい反応をしてみたものの、本当は若菜は直感していたのだった。誰からのメールであるのかを。
 つまらないものしか入っていないと分かりきっている箱を開けるような気持ちで携帯に手を伸ばした。

『たすけて』

 郭からのメールの内容は、たったそれだけだった。思った以上につまらない。若菜は軽く笑って(周りに誰がいるわけでもないのに、それは他人の目を意識した笑い方だった)、携帯を閉じ、服を着替えてそっと家を出た。
 英士の家に向かう途中、若菜の脳裏を白いものが横切った。一瞬のことだったのに、それが何であるのか、若菜には分かった。郭が真田にあげた白い手袋だった。旅行帰りでも誕生日でもクリスマスでもなんでもない、何もないある冬の日に、郭は真田に「きっと一馬に似合うから」と言って、それをプレゼントした。こういうことは別に珍しいことではなかった。郭は「一馬にはこれが似合いそう」だとか「一馬はきっとこれが好きだろう」だとか言って、真田に何かをあげたがる。真田は郭から貰った白い手袋をとても気に入って、いつもはめていた。白は汚れが目立つからどうかなあとも思ったんだけどね、と言った郭に、大事に使うから大丈夫、と真田は答えた。白といっても、真っ白というわけではなく、クリーム色だったのだが、若菜の目には、真田の手にはめられた手袋が純白よりもさらに白く感じられた。息苦しいほどの清潔感だった。ある日、春がくるのがこわい、と真田が言った。言ったような気がしただけで、本当に真田の口から出たわけではない。若菜には、真田がそう言っているように思えた。春はまだ遠い、風の強い冬の日。まだまだこれから寒くなる、そんな日に。怖いのは、さらに厳しくなる寒さではなく、やがて必ず訪れる暖かさ。春になるのがこわいのは手袋を外さないといけないから? 若菜は心の中で真田に問うた。
(もしかしたら、そういう夢だったのかもしれない)
 そういう夢、ってどういう夢? 分からない。けれど、そういう、そういうかんじ、息苦しいかんじだ。でも全然違う気もする。真田とも郭とも、自分自身にさえ全然関係のない夢だった気もする。

「案外早かったね」
 ドアを開けて若菜を迎えた郭は、相変わらずの調子で、平然としていた。彼のこういう態度に今更腹を立てても無意味なので、若菜も平然とした様子で、まあな、とだけ返して家にあがった。郭の家は何の匂いもしない。どこの家にもその家特有の匂いというか空気があるのだと思っていた若菜は、初めて郭の家を訪れたとき驚いた。はっきりと無臭だったからだ。言葉にし難い強烈な息苦しさを覚えた。たくさんペットがいるせいで動物の匂いに満ちた家でも、芳香剤がきつ過ぎて人工的な花の匂いが充満する家でも、そんな息苦しさを感じたことはない。
 郭の部屋の机の上、これ見よがしに置かれた包みに、若菜は苦く笑った。
「一馬への贈り物?」
「多分ね」
「何が『多分ね』だよ。中身は?」
「さあ、なんだったかな。本だったような気もするし、CDだったような気も。でも食べるものだったかもしれない。それともそういう具体的なものじゃなくて、もっと抽象的なものだったかも」
 淡々とした調子で言葉を紡ぐ郭を、若菜は無感情な眼で見つめた。
「お前と話してると嫌んなってくるよ」
「そう?」
 郭の態度はいかにも白々しく見えたが、これが彼の素であることを若菜は知っていたし、それ以上に、これが演技だろうか素だろうが、そんなことはどうでもよかった。問題はそんなことじゃない、と若菜は思う。
「俺にも何か買ってよ」
 心にも無いことを言う。何の罪悪感も興奮も覚えないのに何故か声が上擦った。
「分かってるくせに」
 郭は答えになっていない答えを返す。話の繋がりが見えず、郭の意図が掴めず(掴みたくなかったから掴もうともしなかったのだが)、若菜は僅かに眉を顰めた。
「結人には、お金では買えないものを捧げているでしょう」
 ああ、そうくるんだ、そうくるわけね。若菜ははっきりと不快さを顔に表し、小さく舌打ちをした。
「spirit」
 郭の声はどこまでも落ち着いていた。郭の言葉は、夜の時間に、匂い無き空気に、難なく混じっていく。
「精神」
 すっと混じって、深く溶け込んで、影も形も見えなくなる。
「…ていうか、わざわざ英語で言うなよ」
「もうすぐテストも近いことだしね」
 短いため息の後、テストなんかどうでもいいよ、と言って、若菜は郭のベッドに寝転がった。目を閉じて、俺の代わりにテスト受けてよ、と呟くと、なんか矛盾してない? と郭が少し笑った。すぐ近くに郭の気配を感じてそっと目を開けると、至近距離に郭の顔があって、若菜は思わず息を詰めた。
「なあ、なんで呼んだの?」
 たすけて、って、どういうこと? 呟きのように微かな声で若菜が尋ねると、今頃になって訊くんだね、と郭は返す。
「どうしようもないくらい恐ろしい夢を見て目が覚めて、それで、お前にメールしたんだよ」
 訊かなければよかった、と、若菜は心から思った。でも、こういう返答が返ってくるだろうことは予想できていた。
「結人も見たでしょう、怖い夢。だからお前を呼んだんだよ。お前が怖くて不安な思いをしているだろうから、俺に会いたがっているだろうから、だから、お前を呼んだんだよ」
 そして、こういう言葉が続けられることも予想できていたのだ。
「きっと俺とお前は前世では一つだったんだよ」
 さすがにこれには若菜も笑ってしまった。頭おかしいんじゃねえの? と返すと、郭はさも心外そうな顔をして、失礼だな、と抗議した。
「帰るよ」
 若菜は、伸し掛かるようにしてくる郭の体を押しながらベッドから起き上がる。
「帰るの?」
「うん、帰る。帰って寝るわ」
「一人で眠れるの?」
「お前と一緒じゃ寝れないよ」
 郭は、そう、とだけ言って、もうそれ以上は引き止めなかった。
 郭の家を出て、冬の夜の冷たい空気を吸い込むと、体中が生き返るような感じがした。その感じがあまりにも心地よくて、自由で、でもどこか悲しくて、若菜は少し泣きたくなった。その後急に愉快になって、一人で笑った。夜中だというのに、携帯を取り出して、真田に電話する。しつこいコールの末に出た真田の声は、あきらかに寝起きのそれで、不機嫌そのものだった。こんな夜中になんだよ、と怒った声で言った後、はっとして、もしかしてなんかあったのか? と急に焦った調子になる真田が微笑ましくて、若菜は少し笑った。笑いながら、ひどく残酷な気分になっていった。
「さっきまで、英士と会ってたんだ」
 心臓が、ドキドキして、興奮した。どうしてわざわざ真田を傷付けるようなことを言うのか。真田を傷付けたいわけではない。単なる冗談であっても、彼を傷付けるようなからかい方はしたくない。真田のことを大事に思う。真田と郭がくっつけばいいと思う。それなのに、何故。
 しばらくの間の後、真田は静かに、そうなんだ、とだけ返した。今真田がどんな顔をしているのかどんな思いなのか、声から想像することは不可能だった。なんの動揺も感じられない声。恐ろしかった。携帯を持つ若菜の手が震えた。
『用件はそれだけ?』
「傷付いた?」
『傷付けたいのか?』
 そうじゃない、と、返そうとしたが、言葉にならなかった。

『傷付きたいんだろ?』

 瞬間、携帯を持つ手の震えが止まり、息も止まった。肌に感じていた空気の冷たさも感じられなかった。

『お前って、マゾなんじゃない?』

 電話の向こうで真田が作り笑いをした。
 若菜は黙って携帯を切り、目を閉じて、深呼吸をした。

 切れてしまった携帯を見つめ、真田はため息を吐く。
「こんな夜中に、なんて、無礼な奴だ」
 ひどくわざとらしい声だった。ベッドに戻って枕に顔を埋める。清潔な匂いが心地よく、気持ちが落ち着いてくる。心は、どんどん落ち着いて、これ以上落ち着いたら逆に駄目なんじゃないかと思うくらい深くまで落ち着いてきて、どこまでも沈んでいくような感じだった。傷付くのも、傷付かないのも、傷付けるのも、傷付けないのも、何もかも気味が悪いくらいに容易で、ちょっとした言動一つで、気持ちの持ち方一つで、全て無茶苦茶にしてしまえる気がして、どんな大事なものも大事じゃなくなる気がして、真田はそんな自分自身の思いに震えた。
 なんの意味もない・価値もない・ほんのひとときの・にせものの、全能感/絶望感
 脳の奥の一点が、じんと痺れる。でも、心は少しも動かない。なんてことだ、と真田は思った。ひどい話だ、と真田は思った。 ? 本当にそう思った? ポーズかもしれない。思った振りをしてみただけ。なんてことない。ひどい話なんてどこにもない。

 玄関まで若菜を見送った後、喉の乾きを感じて冷蔵庫を開けた郭に、母親が声を掛けた。
「さっき、誰か来てたの?」
「まだ起きてたんだ?」
 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、コップに注ぐ。コップを差し出し、母さんも飲む? というような郭の仕草に、母親は小さく首を左右に振った。
「大丈夫?」
 母親は、ゆっくりと水を飲む郭を不安げに見つめながら尋ねた。
「大丈夫とは? どうして?」
「なんだか調子が悪そうだから」
「そんなことないよ。今すごくいい気分なんだ」
 空になったコップに再び水を注ぎながら、郭は笑った。



 May.29,2003

 

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