放課後、郭のクラスまで迎えに行ったが、教室に彼の姿は無かった。チッ。若菜は小さく舌打ちをする。どこに行ったか知らないか、近くの生徒に訊いてみるが、返ってくるのは「さあ…」という役に立たぬ答えばかりだ。あの野郎どこ行きやがった。心の中で責めてみたものの、別にいなけりゃいないで何の支障もねえ。一人で帰るほうが楽なのでむしろ喜ばしいことなのだが。しかし。先に帰ったら文句を言われるのは目に見えている。
 どうして先に帰ったの。
 淡々とした中に苛立ちを揺らめかせて不服を言う郭を思い浮かべ、若菜はため息を吐く。まったくめんどくさい奴。そう思っていると、めんどくさい奴からメールが来た。
『屋上』
 って一言かよ。ああもうめんどくさい。思わず声に出た。それでも屋上に向かう自分が嫌だ。嫌だ嫌だと思いながらも足取りは軽く、若菜は階段を上がってゆく。
 屋上の重い扉は、開くとギイィと鈍い音がした。地獄にでも続いてるみたいだ。地獄の扉の先は、何の変哲もない屋上。一気に視界が開ける。閑散としている。空が近い。スーッと澄んだ空気を吸い込めば胸に心地いい。郭は扉を開ける音が聞こえているはずなのに振り返らず、手摺りに手を掛け空を眺めていた。それは別にいい。郭は酔狂にも、晴れているのに傘を差していた。そこには突っ込みを入れる必要があるだろう。
「何やってんだよ、お前は」
 なんかの儀式とか。こいつだと洒落にならん、と若菜は素で思う。声を掛けられたのに、郭はまだ振り向こうともしない。
「春の日差しはきついからね。日除けは当然だよ」
 そういえば。川島なお美は真冬でも日焼け止めをつけてるらしい。と、若菜は姉から聞いたことがある。ような気がする。
「日差しって。もー夕方じゃん。ていうかそれ雨傘だろ」
 くっくっ。郭が背中だけで笑った。何が可笑しいのだ。若菜は眉を顰めてみるも、もう慣れっこだった。不可解で不愉快で面倒な男。でもこの男の、実は意外なほどに子どもっぽくてかわいいところも、知っている。そんな自分にうんざりするが、眉間の皺は既に和らいでいた。
「春の空は情緒不安定だ。そろそろ雨が降るよ」
 やっと郭が振り返る。お得意の天気予報が出た。差していた傘をさっと畳んで、若菜に投げる。
「…うおっ、と!」
 わざとかと思うほど見当違いな方向に飛んで行く傘を、慌てて取りに行った。
「ナイスキャッチ」
 郭の口調はつまらなさそうだった。
「ナイスコントロール、ありがとさん」
 嫌みで返す。つーか傘を投げるな、傘を。若菜がぶつぶつ言っていると、郭は何事も無かったかのように背を向け、最初のポーズに戻って空を見上げている。先に帰っていいよ、と淡々とした口調で郭は言った。
「はいはい、じゃーお先に失礼しますよ」
 借りた傘を軽く振ってみせて(郭は背を向けているのだから、そんな仕草は無意味であるが)若菜はのろのろとした足取りで扉へ向かった。空は赤く乾いていて、雨の降る気配など少しもない。ギギギギギィィ。入るときよりも、もっと酷い音を立てて扉が開き、そして、意外なほど静かに閉まった。
 若菜が校門から出ようとしたところで突然雲行きが怪しくなり、ぽつぽつと雨粒が落ちてきた。おーおーほんとに降ってきたよ。郭から借りた傘を差し、校門を抜ける。突然の雨に慌てている生徒たちを傍目に、ちょっとした優越感を覚えてしまう。

 家の前に彼はいた。しゃがみこんで、俯いている。どこの捨て犬かと思う風情。庇の下に入っていたのが唯一の救いだ。これでびしょ濡れになっていたら目も当てられない。
「一馬…!」
 若菜は慌てて真田に駆け寄った。一体いつからここにいたのだろう。どうしたんだよ、と問えば、真田は重たげに口を開き、ぽつぽつと話し出す。
「えっと、CD返そうと思って」
 お前んち行ったら誰もいないみたいだし、どうしようかと思って、でもちょっと待ってみようかなと思ってたら雨が降り出して、どうしようかなって。別に濡れて帰るのはいいんだけど、もうちょっとだけ待ったら結人が帰って来るような気がして帰れなくて。
 真田の話を聞いてるうちに頭痛がしてきた。携帯鳴らせよ、と言ったら、携帯は忘れた、という答えが返ってきて、若菜は脱力してしまう。
「まあ、とにかく。入れよ」
 促すと、真田は静かに立ち上がる。あ、こいつって俺よりおっきかったんだ、そういや。何を今更、なことを若菜は思った。しゃがみ込んでいたら、ほんとに小さな犬のようだったのだ。主人のいない、どこにも行き場の無い、そういう。

 薄暗い上に雨に煙る外では気付かなかったが、真田の左頬の高い部分は薄っすら青く腫れていた。部屋の光に晒されて浮かび上がる青い痣に、若菜の胸はじくじく痛んだ。
「痛々しいな」
 自分の頬骨を指差しながら若菜が言うと、真田は慌てて頬を隠した。
「別に痛くはないんだけど。あ、でも、触ったら痛いか」
 真田は一つため息を吐いた後、困ったように笑った。大人びた笑い方だ。何かを諦めたような、誤魔化すような、受け入れるような、拒んでいるような、穏やかなような、苦しんでいるような、苦しみなどどうということもないような、優しい、冷たい、複雑な表情だ。真田はこんな顔をする奴じゃなかった。彼の頬に青い痣を付けた人物を、若菜は知っている。藤代だ。でも真田に複雑な表情をさせているのは、藤代だけじゃない。郭と、そして他でもない若菜本人なのだということも知っている。知っていても、何もできないのだった。何かしようとすれば、余計に事が悪化する。全て裏目に出る。どうにかしたくとも、自分にはどうしようもない。郭にもどうしようもない(それ以前に、彼にはどうにかしようという気持ちさえないのだから全く話にならない)
 けれど、あいつなら、藤代なら、どうにかすることができるかもしれない。しかしながら今のところ、若菜には、事態はより悪い方向へと進んでいるように思えてならなかった。
「あいつのことが好きなのか」
「…そうなのかも」
 殴られたら、痛いじゃん。殴り返したら、もっと痛いしさ。痛くて、すげーヤで、ほんとに、すごく、吐きそうで、でも、そういうのが自分のすべてみたいな気になることがあるんだ。
 奇妙なほどに淡々と、真田が言葉を紡ぐ。頬の痣は生々しいのに、真田の言っていることにリアリティを感じられない。どこか遠い国の昔話でも聞かされているような気分になる。藤代が真田を何のために、どんなふうに殴るのか。そして真田はどう反応して、どんなふうに殴り返すのか。想像を試みるも、頭に靄がかかったようになって、どうにも上手くいかない。怒ればいいのか、慰めればいいのか、いっそ嘲笑ってやればいいのか、どう反応すればいいのか。自分がどう感じているのかさえ曖昧だ。広大な、白い曖昧さの中で、悲しみ、のようなもの、が深く暗い染みを作り、じわじわ丸く広がっていく。
「好きだなんて、そんなの、錯覚だよ」
 ぴしゃりと言い放った。しっかりしろよ、と真田の肩を軽く叩く。
「…うん」
「ただの思い込みだ」
「そうだな」
 泣くかと思った。せめて、俯くかと。けれど、真田は真っ直ぐに若菜を見つめていた。黒目の色が、いつもよりずっと深く感じられた。暗く翳っているようなのに、どこまでも澄んでいる。真田の目の中に自分がいる。捨て犬のようなのはこっちの方じゃないか。そう気付いたら、なんだか可笑しくなった。若菜が少し笑ってしまうと、真田は一瞬驚いたように目を瞠ったが、その後ゆっくりと、静かに微笑んだ。その微笑み方。別に誰にも咲くことを望まれているわけでもない、か弱い花が開くときのようだ、と若菜は柄にもないことを思う。花が開くときのようであるのと同時に、開いた花が萎むときのようでもあった。ただ、静かだった。咲くときも、開くときも、たった一人。なんという孤独。自由。
 真田は、こんなふうではなかった。
(こんなふうではなかった? じゃあ以前は、どんなふうだったというのだろう。一体自分はどれほど彼を理解しているというのか。分かったつもりでいただけで、実際は、何も、)

 愛の形は色々だよ。
 携帯電話越し、郭の知ったふうな言い方に、苛立ちを覚えた。真田の頬の痣について話してみれば、リアクションがこれだ。なんてむかつく奴だ、と若菜は心底思う。
「そんなのが愛だなんて俺は認めない。暴力が愛情だなんて俺は絶対信じない」
『暴力は、愛情じゃない。でも愛情は時に暴力だ』
 何を言う。詭弁だ。虫唾が走る。若菜は眉を顰めずにはいられなかった。
『まあ何にしろ、結人には関係のないことだよ』
「関係なくねえよ!」
『一馬と藤代の問題でしょう』
「お前は…、なんつー冷たい人間だよ。血が凍ってる。人間じゃない」
『事実を言ったまでだ』
「死ねっ!」
 ははは、と郭が笑った。なんだそれは。笑うところか。冗談じゃねえ。頭がガンガンして、喉の奥がひどく渇いて、血の味がする。
 悲鳴が出そうだ。
「一馬はお前が好きなんだよ…!」
 でも、お前がそんなふうだから、一馬は傷付いて、だから、一馬は…、
 って。それこそ詭弁じゃないか。全部郭のせいだというのか。そんなわけない。そんなことは、分かっている。
『かわいそうだね』
 電話越しの郭の声はどこまでも穏やかだった。
「心にもないことを、よくもまあ、」
『いや、心から思ってるよ。結人はとてもかわいそうだよ』
「…!!」
 脳の芯が、一気に熱くなる。直後、急速に冷えていく。
 電話で良かった。通話終了ボタンを押した後で思う。会って話してたなら、手が出てた。

 休日に会った際、郭が何事もなかったかのように振る舞うので(実際に彼にとっては、何事でもなかったのかもしれない)、若菜も蒸し返しはしなかった。日曜の夕方、CDショップは混んでいた。まったく、暇な奴が多いぜ。若菜は自分のことを棚に上げて、小さくため息を吐く。欲しかったCDはあっさり見付かり、さっさと会計を済ませて、趣味が違うから自分とは全然別のコーナーばかり見ている郭を探す。
「おい、英士」
 若菜の呼びかけに気付いているのに、郭は別の方向を眺めている。
「どうしたんだよ」
「ほら、見て」
 すっと郭が指差した方向を見遣れば。
「一馬…」
 藤代も一緒だった。藤代は一枚のCDを手に取ると、真剣な表情で試聴している真田の肩を叩く。真田は意外なくらいにあっさりとヘッドフォンを外し、振り返る。真田にCDを差し出しながら、藤代が笑顔で話し出す。
(…あ、一馬も笑ってる)
 若菜は愕然とした。一瞬、目の前に、黒い滝がザーッと流れ落ちて、視界が閉ざされたような感じになる。
「親密そうだね」
 CDを入れ替えて、交互に試聴している二人を見ながら郭が言った。
 それから間も無くして、真田は郭と若菜に気付いた。若菜は真田に向かって軽く手を上げてみせる。真田は、ひどくばつの悪そうな顔をした。ばつが悪いのはこっちだ、と若菜は思う。見てはいけないものを見てしまった気分だ。頬の痣は、ほとんど見えなくなっていた。
 藤代もこちらに気付き、「うわー奇遇〜」と、嬉しそうに大股で寄って来る。真田はCDを片付けてから、きまり悪そうな表情のまま、ゆっくりと歩いて来た。
「和太鼓? へー、郭ってそういうの聴くんだ?」
 藤代は、郭が手にしているCD(「悠響 和太鼓…伝統と創作の世界」)を見て、興味に目を輝かせている。郭は、「いや」とか「まあ」とか曖昧に返事して、CDをそっと棚に戻した。
「あっ、そうだ、ダブルデートとかしない?」
 ダブルデートて。藤代の唐突な提案に、若菜は思わず「はあ?」と声を上げる。真田は神経質そうに眉間に皺を寄せた後、諦めのため息を吐き、郭はといえば、何のリアクションも無い。
「天気いいしさ、今から公園行ってボート乗ろ、とか話してたの。な、真田」
「ああ、…うん」
 一馬と、藤代が、天気の良い日に公園に行って、一緒にボートに!
 若菜はまたも愕然とする。
「若菜も郭も一緒に行こうよ」
 なぜそうなる。助けを求めるように郭を見遣れば、意外なことに郭は、「別にいいけど」と言い放った。
「えっ」
「なに〜? 若菜はボート乗りたくないの?」
「や、そーゆーわけじゃないけど」
 ちらりと真田の様子を窺えば、真田は少し困惑したように首を傾げた後、「おい、無理強いすんなよ」と藤代をたしなめる。えーっ、むりじいなんてしてないじゃーん、と頬を膨らます藤代は子どものようだ。なんだこりゃ。なんかほんと普通に友達っぽくないか、こいつら。若菜はどこか納得いかず、苛立ちを覚える。
「分かった。乗ってやろーじゃねーか。アヒルのボートでもなんでも」
 やけくそだった。
「一人で乗りなよね」
 というのは郭の言葉。めちゃめちゃ素だ。
「残念ながら、アヒルのボートはないんだよなあ」
 これは藤代。この男も、素である。
 真田は呆れたように顔を顰めた後、ちょっとだけ笑った。
(なんだ、その、きれーな微笑みは)

 そして何故、こうなるのか…。
 二人乗りのボートに藤代と向かい合って座りながら、若菜は脱力してしまっていた。
 ボートは二人乗りだからグーパーで組み合わせを決めよう、などと藤代が言い出して、またも郭は「別にいいけど」と返答し、真田は何も言わないしで、まんまと藤代の提案が通ってしまったというわけ。郭と真田の乗ったボートは、遠く離れたところに見える。わざと離れて行ってんのか。と思うほど、遠くだ。
 藤代は鼻歌なんて唄いながら、陽気にオールを漕いでいる。真田に手を上げるときも、こんなふうに鼻歌とか唄っているのかもしれない。そう思うと、ぞっとした。一気に胸のあたりがむずむずしてきて、吐き気を催す。
「これ以上、一馬を傷付けたら殺す」
 鼻歌が止み、藤代は不思議そうに若菜を見つめ、そして、笑った。屈託なく。
「笑いごとじゃねーよ」
「ごめんごめん」
 ごめんで済むか! 若菜が声を上げようとすると、藤代は一旦オールを上げて漕ぐのを止めた。見て見て、と無邪気に言いながら、袖を捲り上げて右腕の内側を見せてくる。そこにはくっきりと歯形が残っていた。
「真田って歯並びいいよね」
 若菜が絶句していると、藤代は満足げに頷いて袖を戻し、再びオールを手にして漕ぎ始める。
「背中もね、ひっかき傷だらけですごいんだよ。真田は、俺の背中に爪を立てるために、爪を伸ばしてる」
 それって素敵なことだと思わない? そういうのもアリかな、って。
「…冗談じゃねえ」
 まったく、ほんとに、心底、冗談じゃない。
 藤代の鼻歌が再開した。ボートはすいすい進んでいく。何事もなかったみたいにして。
(大波よ、来い)
 そして僕らのボートも彼らのボートも飲み込んでしまえばいい。
(人喰い鮫も来い)
 僕らも彼らも飲み込んで。
(ていうかここは公園の池ですから…)

「北のほとりに白い花が咲いてる」
 なんてことない言葉なのに、まるで詩の一節のように聞こえた。
 前にも一度藤代とボートに乗ったことがあるのだと言い、真田は、真っ直ぐに北を指差した。
「見たいの?」
 郭が問えば、真田はしっかりと頷いた。郭は北へとボートを進める。
 岸辺の向こうの陸地に、ぽつぽつと、白く小さな花が咲いていた。郭は、岸にボートを寄せて、オールを置き、ひょいと陸に上がる。白い花を一輪摘んで、ボートに戻った。
 恭しい手付きで真田の髪を撫で、花を耳に掛けてやる。
 真田は、スローモーションのようにゆっくりと瞬き一つ。そして、
「ありがとう」
 と、律儀に礼を言った。
「俺はお前が大事だよ」
「それで?」
「それだけ」
 真田は、そう、とだけ返して、耳に掛けられていた花を取り、池に流した。春の風が吹いて、花は遠くへと流れていく。
「見て、英士。花が泳いでる。きれいだね」
 言いながらも、真田は既に花を見ていなかった。池に映った自分と見つめ合っていた。
 水面に映る顔は絶えずたゆたい、笑っているようにも泣いているようにも見える。じっと向き合っていると吸い込まれそうだ。
(吸い込むんなら吸い込め。連れてってよ、そっち側へ)
「一馬、爪が伸びてる」
「ほんとだ」
「今夜にでも切ってあげるよ」
 真田はすっと顔を上げ、柔らかく微笑んだ。
「英士、俺、爪くらい自分で切れる。子どもじゃねーんだから」
「…そうだね」
「でも、ありがとう」
 とても、丁寧に言った。ありがとう。もう一度。
「英士は優しいね。誰よりも、優しい」

 帰り道、真田はやけに機嫌が良かった。郭と一緒にボートに乗ったのがそんなに嬉しかったの? と藤代がからかうと、そんなんじゃねーよ、と真田はむっとした。
「あ、なんか、付いてる。黄色い粉。花粉?」
 藤代が真田の髪に触れる。真田は、ああ、と返すだけで、少しも動じない。
「ねえ、郭と何話した?」
「気になる?」
「まあね」
「うそつけ」
「わはは」
 踏み切りを渡ろうとすると、タイミング悪く、カンカンカンと音が鳴り出し遮断機が下り始めた。渡っちゃおうよ、と藤代は走り出そうとするが、駄目だって、と真田が制止する。
「ちぇっ」
 言うことを聞いて素直に立ち止まった藤代がなんだか微笑ましくて、真田は少しだけ笑ってしまいそうになる。
「あ」
 線路の脇に、白い花が咲いていた。岸辺に咲いていた花よりも逞しい、別の花だった。
「あれ欲しい。取って来て」
「電車が行ったらね」
「今欲しいから今取って来て」
「やだー、だって危ないじゃん」
 俺のこと好きなら、取って来て。
 そう言った、真田の声の調子は不気味なほどに静かだった。少しもねだっているふうではない。なのに、無視できない真摯さがあった。藤代はわずかに目を瞠る。
「うん、分かった。真田のこと好きだから、取って来てあげるね」
 警報音は鳴り続けている。電車はまだ来ない。藤代は悠々と遮断機をくぐり、線路の脇に咲いている花を根っこごと抜き取って、戻って来た。それからしばらくして、やっと電車の音が聞こえてくる。あまりにもあっさりと事が終わったものだから、真田は少しがっかりしたほどだ。腰を屈めて花を手折ろうとしている藤代に、激しい勢いで電車が迫り、鋭い警笛が響き、そして。そんな空想をして心を震わせていた真田は、気が抜けてしまった。
「こんなことで愛試してるつもり?」
 電車が通り過ぎた後で、藤代が言った。
 愛を試すなど。あほらしい。試せるほどの愛が自分たちの間にあるとは思えない。あるはずがなかった。そんなもの、望んでもいない。真田は苦く笑う。
「単に藤代が危ない目に遭えば面白いと思っただけ」
「あはは、言うようになったなあ」
 はい、と、真田の胸に、抜いてきた花を押し付ける。根に付いた土で、真田のシャツが汚れた。
「ありがと」
「さっきので、俺が死んでたら、泣く?」
「泣くよ。だって、俺のせいじゃん。立ち直れねーよ」
「ふ〜ん?」
「でも、そういうのもアリかな、とか」
「えー、それはひどい。ないない」
 藤代は声を上げて笑っている。つられて真田も笑った。
「それ、大事にしてよね。命懸けで取ってきたんだから」
「すぐ枯れるよ」
 真田は、ぷちりと花の部分だけを切り取って、耳に掛けた。
「かわいいね、すごく、ほんとうに」
 揶揄と軽蔑と愛情に満ちた、賛美の言葉を君に。

 郭の部屋のベランダで、若菜はぼんやりと地上を見下ろしている。
「あいつら、あんなんでも両思いなんだろーか」
 それはほんの独り言だったのだが。部屋の中、見るともなくテレビを見ていた郭は、しっかり返答した。
「さあね。そんなの分からないし、分かりたくもない」
 相変わらずむかつく。
「お前ってやつは…」
「俺たちだって、こんなのでも両思いなのかもしれないしね」

(そんなの、分かんないし、分かりたくもねえ)











May.30,2004



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