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できればあなたの
金魚
になりたいけれどそれは無理だっていうこと
自分でも分かってたいしあなたにも分かっててほしい
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 英士んちの金魚が死んじゃって悲しかった。英士がちっとも悲しそうじゃないのが悲しかった。
 英士んちの金魚は、祭りのときに金魚すくいで英士にすくわれて、英士んちの金魚になった。英士七歳の夏だった。最初五匹いた金魚は、飼ってしばらくすると一匹また一匹と減っていって、一週間も経つと金魚鉢に残ってるのは一匹だけになった。でもその一匹は元気に成長した。小さかった金魚はどんどん大きくなって、お前ほんとに金魚かよって思うくらい鯉みたく大きくなって、英士は大きめの水槽を新しく買ったほど。
 金魚の名前はキンキンといった。命名したのは結人。そのふざけたネーミングに俺は大反対したのだが、結人の強い要望と飼い主である英士が別に反対しなかったことによって、不幸かな英士んちの金魚の名前はキンキンになってしまったのだった。
 でもまあ、キンキンってちゃんと呼んでるのは結人だけだったのだけど。

 英士の家に入ってすぐ気付いた。真っ赤な金魚が泳いでるはずの水槽が、空っぽなことに。
「英士、金魚は?」
 驚いてすぐ英士に尋ねる。
「ああ、死んだ。一昨日」
 英士は振り向くこと無くサラリとそう返答し、
「オレンジジュースと麦茶どっちがいい?」
 と冷蔵庫を開けながら訊いた。
 俺はとても驚いて、そして、信じられなかった。一週間前に見たときは、元気そうに泳いでたのに。
「死んだって…そんな…」
「一昨日の朝、水槽見たら上に浮かんでた。前の晩は元気そうだったんだけど。まあ、仕方無いよな」
 英士は一旦冷蔵庫のドアを閉め、振り返ってそう言った。その時の英士の顔、取り付く島もないほどのポーカーフェイス。英士の気持ち、全然分からない。英士がもう少し、暗い表情をしてたなら、俺は何か言葉を発することができたのかもしれないけれど、あまりに何でもないような表情だったから、俺は何も言うことができなかった。それに、『仕方無い』とか言われちゃったら、もう切り返す台詞なんか無いじゃないか。
 仕方無いって、英士、でも、仕方無いけど、仕方無いとしか形容できないような仕方無いことってあるけど、でも、英士、
 悲しくない? 悲しまないの?
「オレンジジュースと麦茶、どっち?」
 英士はさっき俺が答えなかった質問を再度繰り返す。どっちでも良かった。ていうか、そんなのどうでも良かった、でもとりあえず「オレンジジュース」と答えた。自分の声ってこんなだっけ? と思うほど、消え入りそうな弱々しい声だった。
 英士がジュースの用意をしてる間、俺は先に英士の部屋に行って、ソファーに腰を下ろす。ひどくぼんやりとした気持ちだった。
 英士と七年間も一緒にいた金魚。赤い体。鯉みたく大きな体。生々しく艶めく鱗。決してそこから表情を読み取ることの叶わない無機的な目玉。規則的に開閉する口。いつも動きが鈍いくせに、餌の時間になるとひどく忙しなく泳ぎ回ってた。英士が水槽を人差し指でコンコンと突付くと、寄って来てた。でも俺や結人がそうしても反応しない。金魚でも飼い主が分かるんだって感心してたっけ。ちっとも可愛いなんていう形容詞が似合うようなルックスじゃなかったけど、餌を食べてるときとか英士の合図で寄って来るときとか、そういうときは結構可愛かった。
 なのに。一昨日、突然死んでしまった。空っぽの水槽。空っぽ。目の錯覚とかじゃなく。本当に。いない。いないんだ。なのに。英士は何でもなかったみたいな顔をして。コップにオレンジジュース注いでる場合じゃないだろ。
 そんなん不条理だ。なんて不条理なんだろう。英士の金魚がいきなり死んじゃうなんて不条理だ。金魚が死んじゃったのに英士が悲しまないなんて不条理だ。
 ぼんやりとしていた思考が、ぼんやりとした色合いのまま、どろどろと溶け出して、沸騰して、頭痛がしてくる。胸も喉も詰まって、何か激しいものが体中から溢れ出しそうだった。
 コトン
 英士がテーブルにコップを置く。視界に映る、鮮やかなオレンジ色。コップの表面、冷やかに汗をかいてる。自分の中で、張り詰めてた糸が、少しだけ緩むのを感じた。次の瞬間、吐き気みたく込み上げてくるものがあって、一気に両目から涙が出た。一旦そうなってしまうともう止めようがなくて、瞬きする度どくどく涙が零れる。
 英士は、知らない振りをした。
 俺が泣いてるのに、無視。無視して、隣りに腰掛けて、オレンジジュースを一口飲んで、テレビのリモコンを手に取って電源をオンにする。途端テレビから吐き出される音。鮮やかな映像。英士はオレンジジュースをもう一口。畜生、英士、お前はそういう奴だよ。こうなったらとことん泣いてやる。英士に泣いてもらえない可哀相な金魚と、金魚が死んじゃっても泣けない可哀相な英士のぶんまで泣いてやる。
 いつまで経っても黙ったまんま泣いてる俺にうんざりしたのか、英士はあからさまにため息をついて、テレビの電源をオフにする。静まり返る部屋。
「それくらいにしとけば。もう気が済んだだろ?」
 と英士。
 今度は俺が英士を無視する番。俺は英士に答えず、英士を振り返らず、泣くことを止めず。
「…本来なら、お前が俺を慰めるべきなのにな」
 そう言って英士は俺の頭を撫でた。母親が、小さな子供にするように、ひどく優しく。
 こいつは…。いつもはすごく素っ気無いくせに、妙なとこでさり気なくも的確に優しいから参る。なんだか、ここで反抗しなかったら負けを認めてしまう気がして、悔しくなって、英士の手を振り払おうとする。そしたら、逆にこっちが腕を取られて引き寄せられたかと思うと、英士の顔が近付いてきて、口付けられる。
 瞬間、時が止まった。ただただ唖然。
 言葉を失ってると、英士が再度唇を寄せてこようとしたので、俺は無茶苦茶焦って、力を込めて両手で英士の胸を押し返した。
「な、なんてことすんだよ! 馬鹿! 喪中だぞ!?」
 慌てた俺の口から飛び出したその台詞に英士が笑った。笑ってんなよ、英士。お前は、泣かなくちゃいけない状況にいる人間なんだから。
 けど。ピリピリした空気、最初よりは、少しだけ緩んだ。とりあえず俺は、目の前のオレンジジュースを一口飲んだ。派手に甘酸っぱいオレンジの味が舌を刺激する。喉、胃、冷たく潤される。少しだけ、気持ちが落ち着いて、涙ももう渇いてた。
 しばらくして、英士がふと思いついたように言った。
「勝手に死なれるくらいなら、天ぷらにでもして食べとけば良かった」
「……なんか…、お前が言うとシャレんなんない…」
「なんだよ、それ」
「だってお前、素じゃん、顔。こえーよ」
「しかしなあ、なんていうか。どんなに可愛がってても死んじゃうんだな」
「…うん」
「お前は死ぬなよ」
 俺はお前の金魚じゃないよ。




・終わり・

Jul.7,2000


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