手を、離すことが出来なかったのだ。


彼の手に触れたのは三度目だった。

一度目は、試合が始まる前に。

ニ度目は、試合が終わってから。

それからしばらくの時を置いて、今が三度目。



手を、離すことが出来ない。










彼の右手



「よお!」
 日曜日の昼時、何気なく街を歩いているときだった。後ろから突然肩を叩かれて、水野は驚く。自分を呼び止めた声にいまいち聞き覚えが無かったものだから、少々の警戒心を持って後ろを振り返った。
「桜上水のキャプテンの、水野だろ?」
 屈託のない笑顔で水野に話しかけたのは、先日桜上水と試合をした洛葉のキャプテンの加地村だった。予想外の人物との遭遇に驚いた水野は、しばし言葉を発することが出来なかった。
「えーと、俺、洛葉の加地村だけど。まさか、もう忘れたわけじゃ、」
 加地村は、自分の顔を見つめながら黙ったままの水野を訝しく思った。
「まさか。それはないだろ。ちょっと驚いてただけだ」
 加地村が言い終わらないうちに、水野は抑揚の無い声の調子で返す。
「そっか。しかし、奇遇だなあ、こんなとこで偶然会うとは」
 気を取り直して加地村が笑いながら言うと、水野はやはり素っ気無く、ああ奇遇だな、とだけ無表情で短く答える。そんな水野の冷淡と形容しても差し支えがないような至極淡々とした態度を目の当たりにしながら、加地村は水野に声をかけたことを後悔し始めていた。街を歩いている途中で偶然知った顔を見つけ、あまり考えるところなく声をかけただけだったのだが、声をかける相手を間違えてしまったというかなんというか…。軽く挨拶を交わした後、少しばかりサッカーの話でも、などと和やかなムードを期待していたというのに、声をかけた相手のこの素っ気無さといったら。思いついたら即行動に移してしまう自分のうかつさを、加地村は心の中で少しだけ嘆いた。
 水野の方は水野で、素っ気無く対応することしか出来ない自分に嫌気を感じ始めていた。水野はただ、この加地村との突然の遭遇という事態に戸惑いを感じているだけであって、別に加地村に声をかけられたことをうっとうしく思っているわけではない。むしろ、わざわざ声をかけてもらって嬉しく思っているくらいだった。けれど、そういう気持ちがどうも態度に反映されない。つまり、水野は感情の表出が不得手なのだ。“クール”だとか、さらには“素直でない”だとか他人から思われることもあるが、それよりも彼には“不器用”という形容がしっくりくる。彼は、そういう自分の不器用さによく嫌気が差す。今の状況においても、充分に自分の不器用さが身に染み、水野はそれを心の中で少しだけ嘆いた。
 互いに向き合いながらも、それぞれが内省していたために、二人の間にはなんとも気まずい沈黙が流れていた。『なんとかこの気まずい空気を打破しなければ』という思いは二人に共通していたものだった。
 加地村は、どういうタイミングで『じゃあ、このへんで』といった別れの挨拶を切り出そうかと考える。とにかく自分は一刻も早く水野の前から去るべきだろう。何故なら、水野の態度からは自分との遭遇を快く思っていないことが感じ取れたので。一方水野は、自分がどう振る舞えばこの場の雰囲気が和やかなものに変わるのだろう、とそればかり考えていた。
「じゃあ、そろそろ…」
 色々考え込んでいても堂々巡りだと気付いた加地村が、水野に別れの言葉を告げようとする。ぎこちない笑顔を浮かべながら。
 そんな加地村の言葉を遮るかのように水野が言葉を発した。
「昼飯は、もう食ったのか」
「…? え、いや、まだだけど…」
 何故水野がそんなことを訊くのか咄嗟には理解出来ず、加地村は不思議に思いながら返答する。
「だったら、今から一緒に食わないか」
 水野は先程までと一切変わらない淡々とした調子で言った。彼にしてみれば、これが考え得る最善の提案であり、精一杯の勇気だった。
「は?」
 加地村は水野の提案に思わず驚きの声を短く上げてしまう。彼の提案自体にも驚いたのだが、さらに驚いたのは、水野が提案を口にする時の調子だった。
(人を誘うときに、普通こんな調子で言うだろうか)
 加地村は純粋に驚き、水野の顔をまじまじと眺めてしまった。
 加地村に意外そうにされて、水野は一気に気まずい気持ちになりながら、
「いや、都合が悪いなら、遠慮なく断ってくれればいい」
 加地村から目を逸らしながら言う。
「いや、いいぜ。食おう、一緒に」
 水野の言葉に、加地村は二秒と置かずOKした。水野は、加地村が誘いに乗ってきたのが意外だったのか、少し驚いたような表情になり、その後少しだけ微笑んだ。
(ああ、コイツはこういう性格なんだな)
 加地村は水野の様子を見ながら思い直す。声をかけなければよかった、と思ったことは取り消しにしよう、と思った。
(コイツは、きっと、人付き合いが上手な方じゃねえんだろうなあ…。こんなふうだったらあらぬ誤解を招いたりすることもあるだろうな)
 しみじみと余計なお世話的な考えに及んでしまう加地村であった。

 昼食は、お金が無い中学生に相応しく、マクドナルドで摂ることになった。水野は、加地村の豪快な食べっぷりを、関心と感心の眼差しで眺めていた。
「…よく食うな」
 思わず呟いた水野に、加地村は「よく食うぜ」と笑って答える。
「へえ、人は見かけによるんだな」
 水野が冗談めかして言った。
「悪かったな」
(なんだコイツ、こういう冗談ぽいことも言えるんじゃないか)
 加地村はどこかほっとしたような気分になった。
 水野は、居心地の悪さに似た居心地の良さ、居心地の良さに似た居心地の悪さを漠然と感じていた。基本的には、非常に居心地が良い。けれど、なんともいえない緊張感が自分の中にはある。それが居心地の悪さの原因となっているのだった。そんなに親しくない人物と初めて共にする食事の場に緊張を感じるのは不思議なことではない。けれど、そういうものではない何かが、自分に緊張をもたらしているのではないか、と水野は思う。しかし、その、自分を緊張させる何かというのがあまりにも漠然とし過ぎているせいで、いまいち掴みきれない。
 そういうことを考えながら、今この場でそういうことばかりを考えるのは無意味だ、という思いに突き当たり、水野も食を進めた。
 しばらくして水野が、少々気まずそうに話を切り出す。
「その、さっきから言おうと思ってたんだが…」
「なんだ?」
 水野の少し深刻そうな表情を見て、加地村は一旦食事を中断した。
「声をかけられたとき、その、あまり態度が良くなくてすまなかったな。あれは、別に、声をかけられたことが迷惑だったとか、そんなんじゃなくて、本当に、ちょっと、驚いただけで…」
 水野が気まずそうにたどたどしく言葉を紡ぐ様を見て、加地村は、何を今更、と呆れた気持ちになる。しかし、水野の様子は加地村を少しも不快にさせることはなかった。ぎこちない水野の態度に微笑ましさを感じずにはいれられない。加地村の頬が少しだけ緩む。
(ああ、ほんとに、コイツ、こういう性格なんだ…)
 加地村は改めてそう思う。水野は、加地村の周りにはいないタイプだった。水野に微笑ましさを感じると共に新鮮さも覚えた。
 水野はまだしつこく言い訳染みた言葉を紡ぎ続けている。
「気を悪くさせてすまなかった」
「ははは。分かってる分かってる。そんなこと気にすんなって。分かってるって」
 加地村は笑いながら水野に言う。
『分かってる』『気にするな』という加地村の言葉に、水野は自分の気持ちが温かくなるのを感じた。その手の言葉は、字面だけ見れば安易なフォローの台詞でしかないのに、加地村が口にすると少しも胡散臭くならないのが不思議だった。けれど、どんなに温かい言葉だろうが、やはりその言葉は安易なフォローの台詞の域を出ることはない。何故なら、自分と加地村は互いによく知り合った関係ではないのだから。『分かってる』という言葉も信用ならない。
(本当の意味で、自分を分かってもらえたらいいのに)
 水野は、漠然と、そうした欲求が自分の中に芽生えるのを感じた。そんな欲求を感じながら、そんな欲求を抱く自分自身に戸惑わずにはいられない。今まで自分は、自分自身に対して何かを要求することは何度もあったが、他人にこの手の欲求を抱き、それを自覚するという経験はあまりなかった。
「もう食わないのか?」
 完全に食べる手が止まってしまっている水野に加地村が問いかける。
「食うよ」
 水野はなるべく平静を装って答えた。
「もしかして少食なのか、お前」
「いや、どちらかといえば、けっこう食う方だ」
「へえ、見かけによらないな」
「悪かったな」
「ははは」
 加地村はさも愉快そうに笑った。屈託なく笑う加地村を見ながら、水野はどこか救われたような気分になった。
 ふと水野は、ハンバーガーを持つ加地村の右手に目を向ける。
(そういえば、ニ回握手したことがあったな)
 そんなことを思い返しながら。
 加地村の手は、大きくて、節くれ立っていた。“無骨”という形容がしっくりくる。見る者に、どこか温かい温度を感じさせるような手だった。彼の手は彼の内面を反映している、と水野は思う。水野は、彼の手を良い手だと思う。もう一度、触れてみたい、と漠然と思う。
 サッカーの話題が中心だったが、学校のことや他愛無い世間話などなんだかんだと話し込んでしまって、店を出た時刻は三時前だった。

 まだどこかぎこちなくはあったものの、今日初めに会ったときと比較すれば遥かに打ち解けた雰囲気で話しながら共に歩き、バス停の近くに来ると、加地村が「それじゃあ」と切り出す。
「俺、バスで帰るから」
「ああ」
「あ、もうバス来てるみたいだし。急がないと」
「ああ」
「今日は楽しかったぜ。ありがとな。じゃ」
「ああ」
 颯爽と背を向けて去ろうとする加地村の右手を、水野は思わず掴んでしまった。
 突然手を掴まれて加地村は驚く。しかし、加地村以上に驚いていたのは他でもない水野本人だった。何故自分はこんなことを? そんな疑問が水野の胸を満たす。その疑問の答えは見つからないまま、口にしようとも思っていない言葉が水野の口から滑り落ちる。
「ま、また会えないか?」
 水野は、自分の声が上擦るのを感じた。
「…え、」
 加地村は、ただただ驚いていた。水野の行動にも水野の言葉にも、そして、思い詰めたような水野の表情にも。とことんスマートに事を進めることの出来ない奴だなあ、と半ば呆れ、半ば感心しながら水野を見つめる。もっと気軽に、別れ際に『また一緒に飯でも食おうぜ』とでも言えばそれで事足りるものを、目の前の涼しく整った顔立ちをした男は、ぎこちないやり方で懸命に次の約束を取り付けようとしている。
 面白い奴だな。加地村は、水野に純粋に興味を持ち、惹かれた。
「お前、ほんとに不器用だなあ」
 加地村は何の悪気も無く言ったのだが、水野は加地村の言葉にいくらか気分を害したようで、その美しい眉間に皺が寄った。水野のそんな反応すら、加地村の目には新鮮で愉快なものに映った。
「不器用で悪かったな」
「別に悪かないけどよ」
「………」
 水野はこれ以上どう会話を続けていいものか分からず沈黙し、俯いてしまう。
「いいぜ」
「え」
 加地村の気軽な調子の返事に、水野はぱっと顔を上げた。
「だから、いいって言ってる。お前さっき、また会わねーかって言っただろ?」
「…ああ」
 曖昧に返して、水野はまた俯いた。複雑な気持ちだった。胸の中がどうしようもなく張り詰めていく。
「また今度飯でも一緒に食おう」
「…ああ」
 水野は俯いたまま、また曖昧な返事をした。



「だから、
いいかげんに、手を離せよ」

加地村は、水野をからかうように言って、声を出して笑った。

けれど、水野は、加地村の右手を離すことが出来ず。



 バスはとっくに過ぎ去った後だった。











・終わり・



Mar.1,2000


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