午後一時四十五分。バスルーム。外からはセミの声、聞こえます。
わたしは、鼻のすぐ下まで水に埋まっていました。ずっと息を潜めていました。
真夏、水風呂、真っ昼間、大好きなんです、本当に。そんな私は






いつかわたしは、あんたを、食い殺してしまうわ


 冷たい水を浴びた体は、しばらくするとじわじわと熱を帯びてくる。心身をすっきりさせる目的で水風呂に入ったのに、精神も肉体も余計混乱してしまった。真夏の真昼間の水浴びという、さして不自然でもない自分の行為が、急に恥ずかしい奇行のように感じられて、上條はぞっとする。不愉快な思いで、濡れた髪も気にせずベッドに倒れ込んだ。なんとなく目を閉じようとして止めたのは、瞼の裏に小島の顔が思い浮かんでくる気がしたからだった。しかしその時点で既に念頭には小島が現れている。上條の脳裏で、小島は可憐に微笑んでいた。自慢の兄貴なの、と、手帳に挟んだ兄の写真を見せながら。上條を傷付けようとか、嫉妬させてやろうとか、そんな意図などどこにも隠されていない、純粋な表情。心から兄を好きで、誇りに思っている、そういう顔だった。上條と小島の関係は、ゲームのようなものだった。小島はわざと、上條を怒らせたり悲しませたりするような言動を起こす。そして稀に、飼い猫を可愛がるような甘ったるさで優しくする。小島の態度に、上條は振り回される。激しく反抗することもあれば、おとなしく服従することもある。お互い合意の上の、友情とも愛情とも呼べるような、呼べないような、奇妙なようだけれどさして珍しくも新鮮でもない、浅ましく、いとおしい、そういう関係だった。ゲームの一環で傷付くのならば構わない。けれど、兄のことを話すときの小島は、上條とのゲームから遠く離れたところに居る。そんな小島に、いちいち心を動かされるのは不条理で不公平だと上條は思った。恐る恐る目を閉じ、小島とその兄が抱き合っているところを想像してみた。罪悪感と強烈な自己嫌悪で動悸が高まり興奮が呼び起こされた。震える右手をパジャマのズボンの中にそっと忍び込ませる。指で下着を持ち上げようとした途端、唐突に我に返り、慌てて手をパジャマから出した。汚らわしい、とでもいうように、まだ何にも触れていない手をシーツに擦り付けて清めようとする。冷めきった心は鉛のように重苦しい。酷く惨めな気分だった。深く暗い淵に沈もうとした次の瞬間、ぱっと、跡形も無く淵が消えてしまう。なんて馬鹿馬鹿しいの、と思ったからだった。馬鹿馬鹿しい、こんなことでこんなふうに苦しむのはとても馬鹿馬鹿しい、と。少女趣味な色とデザインのカーテンを見つめながら、何の脈絡も無く、明日が自分の誕生日であることを思い出した。小島に会いたい、と思った。誕生日を祝ってほしいわけではない。小島に会いたい。ゲームの一環として。

 翌日、上條は小島の家を訪ねた。今朝、誕生日祝いにと、母親からプレゼントされた真新しい白いワンピースを着て。本当ならば今日は家で誕生日パーティーをする予定だったのだが、用事があるからと言って家を出て来た。母親は大いに驚き、いきなりそんな、と戸惑ったのだが、結局は娘の外出を許可した。新品のワンピースを身に纏い、大人びたサンダルを履いて出て行く娘の後ろ姿を見つめる母親は、不安げな、寂しそうな、でもどこか誇らしげな、複雑な表情をしていた。好きな男の子のところへ行くのかしら…、と思っていたのだった。
 ドアを開けて上條の顔を見た小島は、開口一番、「宿題なら見せないわよ」と、きっぱり言い放った。そんなつもりはないわ、と眉間に皺を寄せた上條に、まあ上がりなさいよ、と、小島は微かに笑いながら促した。
 小島の部屋は、いつもすっきりと片付いている。無駄な物が無い、中学生の女の子らしさを欠いた、潔いほどさっぱりとした部屋だった。しかし小島は、可愛らしい雑貨を好む一面もあったり、いかにも、といった女の子っぽい服装をすることもあったりで、小島の趣味はよく分からない、と上條は思ったのだが、さして不思議なことでもないようにも思える。小島のこととなると何でも気になって余計なことまで思い巡らせてしまう自分が恨めしかった。開け放たれた窓から入ってくる風で、無地の水色のカーテンが揺れている。いい色のカーテン、と上條は思った。自分の部屋の、ピンク色の繊細なレースのカーテンと比べてしまう。それは母親が選んだカーテンで、上條も最初は可愛いと思って気に入っていたのだが、すぐに飽きてしまった。もう飽きたと言えば、じゃあ新しいのにしましょう、ということになるだろうが、母親の趣味を否定するようで申し訳無い。上條は、娘思いで優しく、温かく、甘い母親を愛していたが、同時に、負担に思うこともあった。学校では、幾人かの取り巻きの女子を従えお嬢様然としていた上條だったが、家の中では従順な一人娘だった。
 冷たい麦茶の入ったコップを差し出す小島の手を見て、上條ははっとする。右手の中指に、上品に光る指輪があったからだ。指輪を注視する上條に、「ああ、これね、こないだ、兄貴にねだって買ってもらったの」と小島が言った。安物よ、と言いながら指輪を見つめる小島の顔は、本当に幸せそうで、上條は目の前が真っ暗になる思いだった。
「綺麗な指輪ね。それ、嵌めてみたいわ」
 上條の口調には抑揚が無く、どこかぎこちなかった。冷たく嘲笑われて拒絶されるに違いないと予測して言ったのだった。小島は、無表情でしばし黙り込み、いいわ、と言って、そっと指輪を外し、上條に差し出した。上條は驚いて目を瞠った。目の前には小島の指輪が静かに輝いている。深呼吸を一つした後、上條は両手で指輪を受け取った。これ以上無いくらい慎重な手付きで、指輪を右手の中指に嵌めてみる。
「あんたの指は細長いから、様になるわね」
 別に皮肉を込めた調子ではなく、小島が言った。しばらくうっとりと自分の指に嵌められた指輪を見ていた上條だったが、急に、とんでもないことをしている、という思いが芽生えてきて、すぐに指輪を外そうとした。が、間接に引っ掛かって、なかなか抜けない。上條は大いに焦り、指輪を引っ張るが、ちっとも抜けそうな気配は無く、指の先は鬱血して薄紫色を帯びてくる。どうしよう、という目で怖々と小島を窺うと、切るしかないわね、と独り言のように呟いて小島が立ち上がった。その言葉に上條の動きも思考も止まってしまう。小島は、机の引き出しからカッターを取り出してきた。カッターの刃を出す、チ・チ・チ・チ、という音が、部屋に響く。息を詰める上條の右手を取り、小島は指輪にそっと刃を当てた。
「あんたの指を切る」
 痛いだろうけど我慢して、などと恐ろしいことを口にする小島は、無表情だった。上條の心身は恐怖で萎縮してしまい、やめて、と声を出そうにも、口を開くことすらできなかった。
「冗談に決まってるでしょ。本気で怯えることないじゃない」
 鈍く光る不穏な刃を納め、小島は鮮やかに微笑んだ。いたずらを成功させた子どものように笑っている小島が、恐ろしくて、恨めしくて、眩しい。あまりに性質の悪い冗談だ、と、上條は未だ強張っている心臓を落ち着けようと、大きく息を吸い込みながら思った。
 石鹸で滑らせれば、指輪は嘘みたいにするりと抜けた。ほっと息を吐き、安堵の表情を浮かべた上條に、指を切られずに済んで良かったわね、と、からかうように小島が言った。上條はむっとしたが、今回は自分が悪かったと思い、ごめんなさい、と消え入るような声で謝った。「素直に謝るなんて、気持ち悪い」と小島は笑った。嘲笑ではなかった。目元が幾らか優しく微笑んでいる。上條は、その笑顔に見惚れた。
「プールに行かない?」
 唐突な小島の提案に、上條は思わず、えっ、と聞き返す。「もう夏休みも終わりだし、泳ぎ納めよ」と小島は言う。水着は貸してあげる、と言う小島に、あんたのじゃ小さくて合わないかも…、と上條は返した。「平気よ。合うわ。ワンサイズ大きめなのも持ってるの。だから大丈夫。行きましょう」と、小島は上條の気持ちなど最初からお構いなしで、すっかりプールに行く気になっている。こうなると、上條は小島の意向には逆らえず、結局は渋々と従うしかないのだった。

 バス停から歩いて5分のところにある市民プールは、人で溢れていた。
「もうすぐ八月が終わるからって、せっつかれるようにして泳ぎに来たんだわ。他にやることないのかしら」
 鼻白んだ調子で言った小島に、人のことが言えるの、と上條が呆れて返すと、私たちはいいのよ、と小島は平然と言ってのけた。何を根拠にそんなことを、と思う上條の背を押し、さっさと着替えて水の中に入りましょう、と小島が急かした。
 人を避けるようにしながら、器用に、淡々と、すいすいと上條は泳いだ。小島は、適当に泳いだり、途中で止まって歩きながら上條を追いかけ、いっそ真摯といっていいほどの様子で泳ぎ続ける上條に少々感心していた。
 やっと足をついて、水の中から上半身を出した上條に、あんたって魚みたいね、と小島が言うと、上條は、無感情な瞳で小島を見つめ、ゆっくりと口を開いた。

「私、鮫よ。人食い鮫。いつか、あんたも、あんたの兄さんも、みんな、食い殺してやる」

 家族連れや、カップルや、友達同士が、これが最後とばかりに楽しくはしゃいでる夏休み終了間近の明るいプールには不似合いな、不穏な発言だった。
「バカじゃないの」
 上條の顔に水を掛けながら小島が言った。あんたはバカね、本当に、バカね、と。その言葉に含まれた、何事にも替え難いいとおしさに気付き、上條の目頭は熱くなった。どんなやり取りもゲームの中なのだろうけど、私は、本当に、この女が好きだ、と思った。このゲームに全身全霊を懸けている、と。(そうなってくると、果たしてそれをゲームといってしまっていいのかどうか疑わしいのだが、それでもゲームなのだった。二人の間で、これはゲームのようなものだ、という暗黙の取り決めがあったから、ゲームなのである。それが命を懸けた真剣勝負だとしても。)
 泳ぎ疲れ、屋根の付いた休憩場所で休んでいると、高校生らしき四人組の男に声を掛けられた。
「君ら可愛いね〜。俺らと一緒に泳がない?」
 いかにも軽薄そうな調子の男たちの登場に、上條は明らかに不機嫌になる。断固として拒絶してやろうとすると、先に小島が立ち上がって口を開いた。
「あんたたち、ほんっと、見るからにバカそうね。私たち、ちょっと声掛けたらついて来るように見えた? だとしたら、ものすごく不愉快だわ」
 きっぱりと言い放って、小島は上條の腕を掴んで立ち上がらせ、早歩きでその場を立ち去った。男たちは言葉を失って、呆然と二人の後ろ姿を見つめるばかりだった。
「見た? あいつらのアホ面。元から頭悪そうな顔してるのにそれがさらに、よ」
「あいつら、高校生よね? …中学生に声掛けるなんて、どうなのかしら…」
「結局男は若い女が好きってことでしょ」
 小島は軽く鼻で笑ってから、「興醒めだわ。帰りましょう」と、一気に不機嫌な調子になって言った。ついさっきまで、楽しく過ごしていて、小島は明るく笑っていたのに。上條は、声を掛けてきた男たちを心底恨めしく思った。
 更衣室で着替え中、上條がワンピースのファスナーを締めるのに往生していると、やってあげる、と小島が申し出た。少し戸惑った後、じゃあお願いするわ、と言って、上條は長い髪を両手で上に上げながら小島に背中を向けた。
「今日気付いたんだけど、あんたって結構毛深いのね」
 ことさらゆっくりとファスナーを上げながら言う小島に、上條は、ほっといてよ、と、ぶっきらぼうに返す。
「毛深い人間は情が深いというわ」
「迷信よ」
「ええ、迷信よ。でも、少なくともあんたには当てはまるんじゃない?」
 どこか馬鹿にしたように小島が笑った。私が情が深いとでもいうの? と、上條は訝った。ああ、でも、情が深いかどうかは分からないけれど、情念ならば。深く、濃いのかもしれない。
 今度私が剃ってあげようか、と冗談を言う小島に、あんたにそんなことされるくらいなら死んだ方がましだわ! と、上條は半ば本気で返した。
 ファスナーを上げ終えた小島に、ありがとう、と目を逸らせながら上條が礼を言った。
「そのワンピース、似合ってるわね」
「…気付くのが遅いわ」
 もっと早く言ってよ、と照れ隠しに乱暴な調子になる上條があまりに子どもっぽかったので、小島は笑ってしまう。

 バスに揺られながら、疲れのためか、小島はうとうとしていた。眠そうな小島の様子は、あまりに無邪気で愛らしく、上條の胸は痛んだ。「今日、誕生日なの」と、独り言のように言った上條に、小島は眠たげな目をしたまま、そう、とだけ返した。
「そうよ」
「それで?」
「それだけよ」
「何かほしいの?」
 上條が欲しいのは、綺麗な指輪ではない(そもそも欲しいと望んだところで、一笑に付されるのがオチである)。
「あんたと一緒に居たい」
 己が発した言葉の安っぽさに、上條はうんざりしてしまう。
「いいわ。夜が明けるまで、ずっと一緒に居てあげる。ケーキも買ってあげるわ」
 ついに小島は瞼を閉じた。目を瞑ったまま、柔らかい調子で、人食い鮫ってケーキ食べられるの? と冗談のように付け足した。上條は辛党で、和菓子は苦手だったが、ケーキなどの洋菓子類ならなんとか食べられる。でも、決して好きではなかった。それでも、小島から与えられるものならば、ケーキだろうが和菓子だろうが、食べ物でないものだって、口にしてしまうだろう、と思った。小島の、半ば寝言のような無責任な優しい言葉に心を奪われて、溶けてしまいそうな自分が、惨めで、情けなくて、馬鹿馬鹿しくて、けれども、愛しかった。バス停に着き、目を覚ました小島が、「そんな言葉覚えてないわ」とでも言おうものならば、小島の白い喉に噛み付いて、食い殺してしまうだろう、と思った。完全に眠りについた小島が、上條の肩に頭を預けてくる。温かく、掛け替えの無い、この上なく大切な重みに、上條の心はぎしぎしと軋んだ。





愛情や、憎悪で、心の表面がざらざらしてゆくの。
そのうちきっと、体の表面も、ざらざらになるんだわ。そんな私は






いつかわたしは、わたしを、食い殺してしまうわ






Aug.29,2003


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