「三上先輩って、小さい頃好きな女の子に冷たく当たって泣かしちゃったこととかありそーじゃないですか? なんかすごいそういうタイプですよね!」
 藤代の言葉に渋沢は思わず笑ってしまった。あまりにもありありとその場面が浮かんできそうだったからだ。











 何をくれようとしていたのか思い出せない。その子の名前も思い出せない。
「亮くん、これあげる」
 差し出された白く小さな手。
 泣くほど嬉しかった。けれど、
「そんなもんいらねーよ」
 冷たく突き放してしまった。
 女の子の傷付いた顔が今でも瞼の裏に蘇る。

 もうずっと、昔のことなのに。



ストロベリーキャンディー


 あと五分かそこらで昼休みが終わる。五時間目は国語か。だりーな。そんなことを思いながら教室に戻ろうと歩いていたら、三階の廊下で渋沢が藤代と談笑しているのを見かけた。
「なーんでお前がここにいんだよ」
 後ろから藤代の頭を軽く小突いてやった。
「いった〜い! 何すんですか!」
 藤代は頭を押さえて非難の眼差しでこちらを見てくる。チ、大げさな奴。
「二年は二階だろ二階。さっさと戻れ」
「なんで三上先輩に命令されなきゃなんないんですか! 俺はキャプテンと楽しくお話してるだけですー」
 藤代は渋沢の後ろに隠れるようにしながら俺に舌を出してきやがった。
「藤代、もうすぐ昼休みも終わるから教室に戻った方がいいんじゃないか。遅れるといけない」
 渋沢が宥めるように言うと、藤代はさも残念そうに「ええええ」と不満の声を上げた後、「でも仕方ないか。戻ります。じゃあキャプテン、また部活で!」と渋沢に満面の笑顔を向け、「ついでに三上先輩も、また」と俺に向かって軽く手を振ってきた。
「てめ〜! 先輩に向かってその態度はなんだ!」
「わー、三上先輩怖い〜!」
 ヘラヘラ笑いながら藤代は走り去って行った。
「あっこら藤代、危ないから廊下を走るな!」
 渋沢がそう注意したときには藤代はもう階段を下りようとしているところで、奴の耳には届いていないことだろう。
「全く、ほんとにあいつは…」
 呆れた声で渋沢が言った。そんなふうに言っても、渋沢は藤代のことをとても可愛がっているのだ。胸の中がむかむかした。
「藤代と何話してたんだよ」
 声色がどうしても刺々しくなってしまう。今どれだけ不機嫌そうな顔をしているのか自分でもよく分かる。
「いや、特にこれといっては…」
「何だよ秘密の話かよ。仲のよろしいことで」
「秘密なんてそんな」
「別に言い訳しなくてもいーだろ」
 渋沢が小さくため息を吐くのが聞こえた。呆れられた。いや、本当は渋沢はため息なんか吐いていないのかもしれない。ただの被害妄想なのかもしれなかった。
 本当に、胸がむかむかした。これは、嫉妬だ。イライラする。苛立ちで視界が赤く染まる。横を通り過ぎていく三人組の男子の陽気な声が癇に障る。黙れ、怒鳴り付けてしまいそうだ。嫉妬深い女のようだ、と自分で思う。これは嫉妬だ。それを今目の前のこの男に指摘されれば、ヒステリックに叫んでしまうか、そうしたい気持ちを抑えて冷たい笑みを浮かべながら侮蔑の言葉を投げかけてしまうかだ。
「授業が始まる。教室に戻ろう」
 不毛な会話を打ち切るように渋沢が言い、じゃあまたな、と穏やかな笑顔で渋沢は軽く手を上げて背を向けた。憎らしかった。とても。憎しみで胸が塞いだ。胸倉掴んで、問い詰めたい。でも何を? 分からない。渋沢を詰問したところで何も出て来ない。追及されるべきは自分の方なのだ。きっと。息が苦しい。不毛だ。不毛な苦しみ。とても今から国語の授業を受ける気になんてなれなかった。今の国語の教師は嫌いだ。見るからに神経質な三十路の女で、指名されて答えられない生徒には陰湿な嫌みを言う。結婚しているらしいが、旦那はあんな女と生活を共にしていて発狂しそうにならないんだろうか。

 五時間目は保健室でサボることにした。
「ちょっと頭痛がして…」
 弱々しい表情を作りながら言うと、保健の先生はあからさまに疑わしい眼差しで俺を見た。
「あなた一昨日も来たわね」
「そうでしたっけ」
 先生はため息を一つ吐き、「まあ、いいわ。利用者カードに名前と症状を書いて一番左のベッドで寝て」と言った。
 他に生徒は誰もいなかった。ベッドは一つ一つカーテンで遮断出来るようになっているが、カーテンは全て開いていた。利用者カードに必要事項を記入して、左端のベッドへ行く。先生は無言でカーテンを閉めた。靴を脱いでベッドに上がる。白い天井。保健室は白い。保健室は独特の匂いがする。病院の匂いだ。隔絶された空間。あまり寝心地の良くないベッド。カーテンの向こう側から先生がペンを走らせている音が薄っすらと聞こえてくる。じわじわと意識が遠退いていった。

 チャイムの音で、はっと目が覚めた。五時間目の間ずっと寝ていたらしい。休み時間になったせいで、外から生徒の声や足音がやかましいほどに聞こえてくる。
 ガラリとドアの開く音がし、「失礼します」という声が聞こえた。聞き馴れ過ぎた声だった。
「おーい…、三上、いるのか…?」
 抑えた声が耳に届いた。
「ここ」
 ベッドから起き上がらないまま返事をすると、遠慮がちにカーテンが開き、「三上?」と名前を呼びながら隙間から渋沢が顔を出した。中に居るのが俺だと分かるとほっとしたような表情になり、カーテンを開けて入って来た。
「先生がいないようなんだ」
「あっそう」
「体調が悪いのか?」
 それにしてもクラスが違うというのに何故人が保健室にいることを知っているんだろう。さっすがキャプテン。チームメイト(しかもルームメイトでもある)のことをちゃんと把握してくれてる。あー嬉しいこった。
「別に体調なんか悪くねーよ。ただのサボり」
 寝返りを打ちながらそう答えると、渋沢は途端に責めるような顔付きになった。
「あーだりー。次も寝てようかな」
 欠伸が出た。本当にだるい。
「駄目だ。六時間目は出ろ」
 命令形かよ。まいったね。いつでもどこでもキャプテン然としやがって。気に入らない。
「だってまだ眠いし」
「いいから早くベッドから下りろ」
 やはり命令形で言いながら渋沢は俺に手を差し伸べてきた。

 その手を、掴めというのか。そんなこと、出来るわけが。

何をくれようとしていたのか思い出せない。その子の名前も思い出せない。

 手を伸ばせない。簡単なことなのに。ほんの僅かな距離なのに。

覚えているのは、差し出された白く小さな手。
そしてそれを拒絶したときの、その子の傷付いた表情。

 また同じ過ちを繰り返すのか。(やはりあれは過ちだったのだろうか?)

 差し伸べられた手を取らずにベッドから立ち上がる。渋沢の横を通り過ぎてカーテンを開け、保健室のドアまで行ってから振り返った。
「何してんだよ。行くぞ」
 ついて来ると思っていた渋沢がついて来ていない。渋沢がどこか傷付いた表情をしていれば面白いと思った。けれど渋沢はただ呆れたような顔をして立ち止まっていた。
「何ボンヤリしてんだよ」
 言いながら、少し離れたところにいる渋沢に向けて手を差し出した。
 手を差し伸べるのは恐ろしい。差し伸べられた手を取ることよりも、ずっと。振り払われるのではないか。無視されるのではないか。恐怖で指先が冷たくなった。渋沢がゆっくりこちらに歩み寄り、俺に手を伸ばす。奇跡のようなシーン。スローモーション。自分の心音だけがやけに耳に付く。渋沢の手が自分の手に触れた瞬間、不覚にも泣けそうになった。

何をくれようとしたのかすら、名前すら、思い出せず、
それでもふと蘇る過去の記憶。

 今なら、あの子に謝れる気がした。そして、本当は嬉しかったのだと、手のひらの上のものを受け取りたかったのだと、言える気がした。

 渋沢の手を強引に引き寄せた。背伸びして唇にキスした。チャイムが鳴り始める。唇をギリギリのとこで離して、「口、開けろよ。舌入れらんねー」そう要求した。
「オネガイ、開けて」
「みか…」
 渋沢が文句を言うためにか俺の名前を呼ぼうとしたその隙に舌を入れた。舌、噛まれてもいいや。噛みちぎられてもいいや。
 チャイムが鳴り終わると同時に唇を離すと、渋沢は真っ赤になって口を押さえた。
「今から行ってもどうせ遅刻だからサボっちまおうぜ」
「俺は行く!」
 渋沢は保健室のドアを大きな音を立てて開け、出て行ってしまった。早足で廊下を歩く音が聞こえる。こんなときでも廊下を走らないんだ。なんだか笑えた。
 渋沢の足音が完全に聞こえなくなると、急に膝から力が抜け、その場に座り込んでしまった。

 あ、口の中、なんか甘い味?
 そう思いながら、口を押さえる。


 くそ、今更ドキドキしてきやがった。









おしまい







Nov.15,2001


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