と、願う、
それが 僕の 誠意。


☆シンシアリー☆


 黒くて厚い雲が空を覆っていた。そのせいで、昼間だというのに辺りは薄暗い。時折雲の切れ間から覗く太陽は、気味が悪いほどに白く眩くぎらついている。雨が降りそうで降らない。湿った風は生暖かく、体に纏わりつくようだった。あまりの蒸し暑さに堪えかねてか、真田一馬は低く呻いた。冬より夏の方が過ごしやすいと思っている彼だが、こうも蒸すとたまらない。雲に覆われた暗い空が、追い討ちをかけるように気分を暗くさせる。
「暑いね」
 涼しげな声で言った郭英士の横顔は、やはり涼しげだった。暑いね、なんて言ってる割にはちっとも暑そうではない。
「暑いなんてもんじゃねーよ」
 この蒸し暑さにびくともしてない(一馬にはそう見えるだけ)英士が癪に障り、自然と声は低くなる。恨めしげな眼差しを向けてくる一馬を、英士は心外そうに見返した。俺が何したっていうの、とでもいうふうに。そんな英士の様子が、さらに一馬を苛立たせた。
「夏なんだから、暑いのは当然でしょう」
 仕方ないなあ、というように微笑んだ英士があまりにも憎らしく、一馬はそっと舌打ちをする。夏なんだから暑いのは当然、なのは当然だ。そんなことをわざわざ指摘してくるなんて。
(こういうとこ、無神経だよな)
 さも余裕そうな英士の顔をちらりと見遣って、一馬はため息を吐く。ため息の理由は、英士ではなくむしろ自分自身にあった。英士の無神経さを割と気に入ってるだなんて。
「あーむかつく」
「どこか涼しいところで冷たいものでも飲もうか」
「お前ってむかつくよ」
「夏が暑いのは俺のせいじゃないよ」
「お前のそういうところがむかつくんだよ」
「奢るよ」
「えっマジで?」
 途端に態度を変えた一馬に英士は笑った。人から施しを受けるのを極端に嫌う一馬だが、親しい相手からとなると話は別だ。ふと英士は、結人を介して一馬とつるむようになったばかりの頃を思い出す。練習の後、自販機で缶ジュースを奢ってやろうとすると、一馬は頑なに拒んだ。悪いからいいよ、と遠慮の言葉を述べながら、お前に奢ってもらう理由などないのだと、つり上がった強い眼はそう言っていた。奢ってあげようと思ったのは、何気なく、だった。そりゃちょっとは、歩み寄りたい、なんていう下心と呼ぶにはあまりにもささやかな思いはあったが、決してやましい類のものではなかった。拒絶されたようで悲しかった。思えばあれが恋の始まりだった、と言ってしまうのは大げさだが、まあ当たらずとも遠からずといったところだ。自分に心を開いてほしい、と思った、と言うと美しい聞こえだが、こういう頑ななのが自分に懐いたら面白いだろうな、と思った、と言うと聞こえが悪いが、二つを混ぜ合わせたような気持ちになったのだった。共に過ごしていくうちに、英士の望む通り自然と一馬は懐いた。それより先を望んでしまった。懐けた相手に溺れてしまった。こんなはずじゃなかったんだけどな。英士はそう思いながらも、本当はもっと前からこうなってしまうことを分かっていたような気もしていた。ってどっちだよ。

「ってオイ、日陰で缶ジュースかよ」
 公園のベンチに座り、英士から手渡された冷たいリンゴジュースを手にして、一馬はさも不満げに言った。
「何か文句あるわけ?」
「奢ってやるとか言うから俺はてっきり小奇麗な喫茶店とかでパフェでも食わしてもらえるもんだと思ってたんだよ」
「あはは。勝手なこと言ってくれる。お前、最近結人に似てきたね」
 小さな子供に向けるような甘ったるい顔で英士が笑った。一馬はどこか気恥ずかしくなって、目を逸らす。
(英士はぜったい俺のことアホだと思ってる…)
 子供扱いされる度、一馬は複雑な思いになった。嬉しくもあり、悲しくもあった。自分にだけ向けられる英士の甘い微笑みに、傷付いて、喜んだ。
(英士はぜったい俺のアホなとこが可愛いとか思ってる…)
「どうしたの?」
 黙り込む一馬を気遣うようにして、英士は一馬の髪をゆっくりと指で梳く。頭皮に触れた指の冷たさに驚いて、一馬が思わず身を引こうとした瞬間、プツ、という音とともに小さな痛みが前頭部に走った。英士に髪の毛を一本抜かれてしまったのだった。何すんだよ、という一馬の抗議を無視して、英士は抜いた髪の端を指で摘んで一舐めしてから、手を頭上に掲げた。
 黒い糸のような髪の毛が、生温い風に吹かれて弱々しく揺れる。
「な、何してんの?」
 英士の突然の奇妙な行動に一馬は動揺した。
「風の動きを読んでるんだよ」
 英士は風に揺られる一本の髪の毛から目を離すことなく何食わぬ調子で返答した。
「今宵は嵐になるよ」
 英士の言った台詞の内容よりも、“今宵”などという言い方に思わず突っ込みを入れようとしたとき、
「郭」
 一人の女の子が英士に声をかけた。澄んだ声だった。澄んだ声に相応しい清楚な容姿だった。名前を呼ばれた英士は顔を上げ、ああ、と軽く返事をする。素っ気無い調子だったが、声をかけられて不愉快がっているようではなかった。英士に女の子の知り合いがいることに、一馬は純粋に驚きを感じた。
「別の学校の友達?」
 女の子はちらりと一馬を見遣って英士に問う。視線を向けられたのはほんの数秒だったが、品定めされたように感じて、一馬はどこか居たたまれない思いになった。女の子のこういうところが苦手だ、と思いながら目線を下げ、何も無い地面を眺める。
「アンタこんなとこで何してんの?」
「別に。散歩」
「ふうん」
「そっちこそ何してたの」
「別に? 散歩?」
 英士の言葉を真似た女の子に、英士が少しだけ笑った。気安く会話を交わす二人を傍目に、一馬は居心地の悪さを感じてならなかった。
「今度コンパしようよ」
 女の子のその言葉は、英士だけではなく一馬にも向けられていた。
「しないよ」
「郭は来なくていいよ。人集めるだけでいいから。そっちの子とか」
 またもや品評の眼差しを向けられ、一馬は困惑した。曖昧に笑って誤魔化せるほど器用ではないので、あからさまに困ったような表情でいると、女の子は可笑しそうに笑った。
「バカなこと言ってないでもうどっか行ってよ」
 苦笑混じりに英士に言われ、女の子は、ひどーい、と返しながらも、じゃあね! と手を振り去って行った。女の子に向ける英士の表情が親しげなものだったことに、一馬は心から傷付いていた。英士のそういう表情は、自分や結人だけのものだと思っていた。自分の知らない英士の世界を見たようで、少なからずショックを受けた。学校が違うのだから、自分には分からない英士の世界があるのは当然だ。たとえ学校が同じだったとしても、他人のことを全て把握するなんて出来るわけがない。そんなことは当然のことだから、そんな当然のことに今更傷付くのも馬鹿馬鹿しい。知らない世界を垣間見たりなんかしたくなかった。全然知らないままでよかった。そんなふうに思ってしまう自分が酷く弱い人間に思えてうんざりしてしまう。
「英士、そろそろ帰ろう」
「もう?」
「だって、嵐になるんだろう?」

 英士の予測通り、嵐が訪れた。日没後から次第に風が激しくなり雨がぽつぽつと降り出した。天候はどんどん悪化し、暴風暴雨、夜には雷まで鳴り出した。一馬は窓の外を眺め、ため息を吐く。両親の帰りはいつも遅く、帰宅は深夜だった。ひとりっ子なので家に一人で居ることにはもう慣れてしまっていたが、嵐の夜はやはり不安だ。不安というよりも寂しかった。ふと英士を思い出して、さらに寂しくなった。自分はなんて甘ったれなんだろうと思いながら、ベッドに横たわる。英士に会いたいと思った。せめて声を聞きたかった。携帯と見つめ合ってみた。
(かかってこねえかな…)
 自分からかけることは出来ない。どこまでも受け身な自分に嫌気が差す。馬鹿馬鹿しくなって携帯を投げつけようとしたときにインターホンが鳴った。英士かな、と思う。英士だったらいいな、ではなく、英士かな、と思ってしまったのは、前にもこういうことがあったからだった。学校で嫌なことがあって、家で一人で陰鬱な気持ちになっているときだった。英士が慰めてくれたらどんなにいいだろう、と思っていた。そうしたらインターホンが鳴って、英士がやって来たのだった。
 急いで階段を下りて玄関に向かう。ドアを開け、一馬の目の前に現れた人物は、真っ黒な合羽を着ていた。目深にフードを被っていたため、顔がよく見えない。一馬が何か言葉を発しようとすると、真っ黒な合羽を着た人物に口を押さえられる。本能的に危険を感じ、自分の口を塞ぐ手に噛み付くと、真っ黒な合羽は小さな悲鳴を上げて一馬から離れた。
「英士! 冗談もいい加減にしろよ!」
 真っ黒な合羽の腕を掴んで家に引き入れながら一馬が言うと、真っ黒な合羽はフードを脱ぎながら、
「なんだ。ばれてたの?」
 つまらなさそうに言った。合羽の中身は英士だった。
「何なんだよ、お前は…」
「一馬を驚かせたくて」
「そのためだけに来たんじゃないだろうな?」
「一馬に呼ばれた気がしたんだよ」
「怖いこというなよ」
「だってほんとにそんな気がしたんだ」
「…英士みたいなのを“電波”っていうんだって」
「電波?」
「結人が言ってた」
「よく分からないんだけど」
「俺もよく分かんないんだけど」
 こうして玄関で話しているのもなんなので、とりあえず入れよ、と英士を促すと、
「ニャー」
 …それが返事? さすが電波、ついに猫語を?
 なわけはなくて、本物の猫の鳴き声だった。英士の黒い合羽の中から小さな猫が愛らしい顔を出している。
「あ、途中で拾ったんだった」
「今思い出したのかよ!」
「雨の中捨て猫を拾う俺…、素晴らしいシチュエーションに我ながら恍惚とした気分になったね…」
「な、何言ってんの英士…」
「ふふふ」
「その笑い方やめろよ」

 英士の体が酷く冷たくなっていたので、風呂に入るように勧めた。ついでに猫も一緒に。
 風呂から上がった英士の顔や腕には、ところどころ引っかき傷があった。
「猫が暴れて…」
 いかにも参ったという感じで言った英士に、一馬は大いに笑った。
 猫にあげる牛乳を取りに行くついでに、英士に温かい紅茶を淹れてあげた。濃く出し過ぎて、紅茶は黒っぽくなってしまった。淹れ直そうかと思ったが、まあいいかと思い直して英士に出す。英士が、すごく美味しい、と言って綺麗に微笑んだので、一馬は少し照れてしまった。カップに入った紅茶を飲む英士は無駄に優雅で、はまり過ぎててなんだか可笑しい。
「英士、小指立ってるよ」
「えっ」
「嘘」
「お前ね…」
 英士の呆れた声を無視して、一馬はフローリングにそのまま横たわり、猫を撫でた。
 カーテンを開けた窓から見える空が、さっと白く光り、稲妻が部屋を数秒明るく照らした。しばらくして、低い雷鳴が轟く。
「おへそ、取られちゃうよ」
 シャツの裾からちらりと覗く一馬の腹を、英士が手で押さえた。冷たい感触に震え上がる。一馬は身を捩らせて仰向けになり、臍を隠すように猫を腹の上に乗せた。
 ひとしきりの雷鳴が止んだ後、部屋に沈黙が訪れた。猫も鳴かない。一馬の腹の上で丸くなっている。
「あの子はただのクラスメイトだよ」
 沈黙を破ったのは英士だった。一馬は一瞬、“あの子”というのが誰を指すのか分からなかったが、すぐに思い当たって戸惑った。今日公園で出会った女の子のことだ。何故今になって唐突にそんなことを蒸し返すのか分からない。
「…分かってるよ」
 他にどう答えればいいのか分からなかった。
「好きだよ、一馬」
 唐突な告白。また空が光る。部屋が白く染まって。雷鳴。
「そんな恥ずかしいこと平気で口にするんじゃねえよ」
 そんな大事なこと、簡単に口にしないで。
 一馬は寝転がったまま英士に背を向けるように横向きになり、丸くなった。一馬に抱き込まれた猫が、息苦しそうに鳴いた。
 一馬のいかにも頑なそうな背中に英士が少しだけ笑うと、一馬は弾かれたように体を起こす。その隙に猫は一馬から逃れて英士の方に走って行った。
「何が可笑しいんだよ」
「出会って間も無い頃のことを思い出したんだよ」
 猫を抱き取って優しい手付きで一撫でしてからそっとフローリングに置いて、英士は一馬に向き合った。
「あの頃のお前は、体中に棘を生やしてるみたいだったよ」
 英士は言いながら、一馬の額に自分の額をくっ付け、目を閉じた。
「他人を傷付けるのが目的の棘じゃない。自衛のための棘だ」
 目を開けて、少しだけ笑った。あまりに穏やかな微笑みだった。一馬は何故か強烈に胸が痛んで、何も言葉が出てこなかった。
「痛々しくて、たまらないよ」
 一馬の肩を押して倒す。さっきまではあまり意識されなかったフローリングの硬さと冷たさを強く感じて、一馬は体を震わせた。

「見せて」

 何を?
 棘を
 いやだ
 お前の棘がとても好きなんだ


 肌に触れた英士の手は、フローリングよりもずっと冷たかった。

 初めて抱き合ったときのことを覚えてる?
 事の途中で英士に問いかけられ、混沌としていく思考の中で、一馬は記憶の糸を手繰り寄せるが上手くいかない。でもほんとはちゃんと覚えてる。抱き合う? あれは、そんな甘美な響きが似合うようないいものじゃなかった。とても乱暴で、一方的なものだった。抵抗したら頬を打たれてネクタイで手首を縛られて何の準備もなく押し込まれて傷付いて血が出て、傷付いた。それでも許して受け入れたのは、離れたくなかったからだった。友情で結び付いていたかったが、結び付いていられるならば、友情でなくても恋愛感情でもよかった。とにかく、結び目を切るのも切られるのも絶対に嫌だった。ゆるむのも嫌だった。強固に結び付いたままでいるために恋愛感情やキスやセックスが必要ならそれでもいい。結び付きが、どうしても必要だ。棘などいらない。
「あの時は、かなり強引だったけど、でも、ああするしかなかったんだよ」
 ああするしか、なかったんだ。
 自分自身を納得させるように英士が繰り返した。

 雷が、低く、強く弱く、鳴り続けていた。
 
轟け。轟け雷鳴! 鋭い雷が、二人の上に落ちればいい。(でも結び目よ、切れないで)

「ほんとはね、あの子と寝たよ、一度だけ」
 でもとてもつまらなかった、と英士は付け足した。事の後、二人してだるい体でベッドに横たわっているときだった。
 英士の無神経さは意図的なものなのだと、今になって初めて気付き、一馬は少しだけ泣いた。
「英士は、酷いよ」
「お前には負けるよ」
「俺は何もしてないじゃないか!」
「それが酷いことだってどうして分からないの?」
 憎悪のこもった眼差しで見つめられ、一馬は息を呑んだ。そんな感情は、とても受け入れられない。一馬が何も答えられずにいると、英士はベッドから起き上がり、さっさと服を着てソファーに座って猫を構った。突き放すような態度が恐ろしかった。一馬はただ目を伏せるしかなかった。
 目には見えない悪意が、邪念が、部屋に充満している気がした。自分が目を逸らして受け入れずにいる受け入れがたい色々な感情(それは英士のものであったり一馬のものであったり英士のものでも一馬のものでもないものだったりするもの)が、フローリングの上でのた打ち回っている気がした。
 
醜きものは、可哀相。どこにも居場所を見つけられない。

「ごめん…」
 弱々しい声で一馬に謝られ、英士はゆっくり顔を上げる。謝罪の言葉は時に人を酷く傷付ける。
「どうして謝るの?」
「俺はお前を、満たしてやれない」

 また稲妻。白い光は嘘みたいに神々しい。でも明るく部屋を照らすのは一瞬だけ。何も救えない。そして雷鳴。

「俺はお前に、満たしてもらいたいわけじゃない」

 俺にどうしろっていうんだよ、と、唸るように言葉を発した一馬に、
「お前には誠意ってものが足りないんだよ」
「誠意って何?」
 それはどんな色をしていてどれくらいの重さがあるもの? あまりにも安っぽい響きで笑えた。誠意という言葉は誠意という言葉でしかない。

「一馬には一生分からないよ」
 そう言って、英士は猫にキスをした。


 

 

Jul.11,2002

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