ふれたらもうトリコになるから。
ふれなくたってもうトリコだけれど。

sweet temptation.It's freestyle.



 「だいぶ焼けたな」
 一馬の腕を見ながら言う。白い半袖のTシャツからすんなりと伸びた彼の腕は、日に焼けて夏らしい色をしていた。右腕を少し上げて自分の肌の色を確かめながら「そう?」と聞き返す一馬に俺は頷いた。
「あ、ほんとだ。すげえ、色全然違う」
 一馬が左手で、右の袖をたくし上げ、普段衣服の下に隠れているせいで日焼けしていない上腕と、夏の間常に陽にさらされているせいで日焼けしている前腕を見比べながら言った。
 一馬の二の腕は存外に白くて、思わず息を呑むほどだった。なんだか見てはいけないものを見てしまったような気持ちになり、意識的に彼の腕から目を離す。とりとめのない罪悪感とちょっとした興奮で、心が乱れる。これ以上見ないようにと思っているのに、無意識に目が行く。普段衣服の下にあって太陽の影響を受けていない白い上腕に気を引かれてならない。
『触りたい』
 ふとそう思った。彼の日焼けしていないその二の腕に触れたいという欲求。何故触りたいのか、それは説明できない。ただ、触りたい、そう思った。自分の内側、本能がそう欲している。本当に、理論的に出所を説明できる類の欲求ではないような気がする。ただただ本能的なもので。目の前に小さな犬や猫が現れたら、思わず撫でてみたくなったりするような、そんな類のもの。でもそういう本能的なものであるがゆえに、一旦思い始めると一気に膨らむ。
 触りたい。あっという間に欲求は高まる。本当に触りたい。今触りたい、すぐ触りたい、すごく触りたい。触りたい。でも触る口実が無い。ゆえに触れない。
 まあ、少々触るための口実の一つやニつ、咄嗟に用意出来るようにも思えるけれど、なんだかそういうのってちょっとみじめっていうか。
「英士?」
 どうかしたのか、と一馬が問う。しばらく俺が黙りこくっていたので、訝しく思ったのだろう。突然名前を呼ばれて、思わず心臓がすくむ。その上、「どうかしたのか」なんて付け加えられて、さらに動悸が高まった。自分の中の欲求を見破られるのではないかと思うと、ひんやりとした気持ちになる。そんな大した欲求ではないとも思うのだが、あけすけには出来ないような類の欲求であることも明らかだ。自分の欲求を相手に見破られるまいと思っているうちにも欲求は高まる。心臓の奥深い部分で湧き上がった欲求が、どんどん上昇して、喉のあたりでくすぶっているのに気付く。
 言ってしまいそうになる。
 触らせてくれないか、と。
「一馬、」
 名前を呼ぶと、一馬は生真面目に視線を合わせてくる。
 言えるか? 触らせてくれないか、なんて。お前の日焼けしてない二の腕を見てたらすごく触ってみたくなったので触ってみてもいいか、なんて。突然湧いて出たそういう欲求を露呈することができるか?
「喉渇かないか」
 自分の口から零れたのは、頭の中で考えていることと全くかけ離れた内容のものだった。「触りたい」と言ってしまったらお終いなような気がした。お終い、だなんて、酷く仰々しい表現だけど、俺が思い浮かべているお終いというのはそんな大げさなものではなくて、もっと曖昧で、希薄で、抽象的で、とりとめのないものだ。ただなんとなく、言ってしまったらお終い、そんな感じ。でも、お終いって何がお終いなんだろ。
 喉が渇かないかという俺の問いに、一馬は思いきり賛同の意志を表明した。
「渇いた、渇いた、すげえ渇いた。ジュース飲みたい。喉渇いた」
 しつこいくらいに繰り返す。俺が言い出すまではちっともそんなこと言ってなかったくせに。一馬の喉渇いたコールを聞いてると、なんだか欲求も少し萎えてきた。この調子で、こんな欲求はすっきりきれいに消えてしまえばいい。抱いても叶う当てのない欲求なら抱くだけ無駄、抱くだけ負担というものだ。

 八月のど真ん中。夏真っ盛り。夏休み中盤戦。外はうだるように暑い。もう夕方だっていうのに酷く暑い。とにかく暑い。さらに、暑さに拍車をかけるようにセミが喚いている。ミンミンジージーミンミンジージー、ほんとよく鳴く生き物だ。あまりに酷く喚き立てるので、もうセミの鳴き声が自分の外側から聞こえているのか自分の内側から聞こえているのか分からなくなりそう。思考が鈍る。気温が上がれば上がるほど、思考の彩度が失われてく(…だから夏は嫌いだ)。そんな馬鹿みたいに暑い中、一馬と二人で道を歩いてる。時折自分達を追い越して乱暴なほど爽快に走り抜けていく自転車が酷く恨めしい。もっと恨めしいのは車だけど。
 恨めしい、なんてことを考えていると、当然のように結人の顔が脳裏にちらついた。今頃、結人はクーラーの効いた部屋でジュースでも飲みながらノンキにゲームでもしたりしてるんだろう。ほんと勝手気ままな奴。心からそう思う。といっても怒りはほとんど感じてない。ただ相変わらずだな、と呆れというかもはや尊敬の念すら抱いてしまう。本当は、今日は三人で買い物に行く予定だった。言い出したのは結人だ。秋物を物色しに行こうだのと言って四、五日前に勢い良く提案して俺と一馬を誘ったのは結人なのである。
 今日、約束の時間三十分前、俺が外出の準備を整えて、今から家を出ようというまさにその時、電話が鳴った。
『もしもし、英士。俺、俺。分かる?』
「結人? 何だよ。俺今から出るとこなんだけど」
『あ、そうなの?』
「で、何。もしかして遅れるとか?」
『うーん、遅れるっていうか。…俺、今起きたんだけど』
「遅刻確実じゃないの」
『いや、ていうか、俺、今日パス』
「は?」
『ごめんごめん。なんかもう今から用意すんのもだるいしさー。あ、あと今日すげー暑くねえ? 外出んの嫌だよ。そんなわけで今日は家でダラダラ過ごすことに決めた』
「…お前…」
『ほんとごめんな。一馬にも謝っといて。そんじゃ。おやすみ』
 そこで電話は切れた。
 …おやすみって…。あまりに一方的で性急なキャンセルの電話に一瞬唖然としてしまったが、こういうことは初めてではなかったので、まあ結人のことだからな、とため息を一つ吐いて受話器を置いた。
 結人が来なくなったことを一馬に言うと、一馬は「これだから結人は…」という台詞に始まり悪態ついて、一通り文句を言い終わると「でもまあ結人のことだから」と呆れたように言ってからちょっとだけ笑った。結人の勝手さやいい加減さは、なんだかんだいっても結局はきれいさっぱり許される。許されるというか許してしまうというか許さざるを得ないというか。なんか結人って得だな、と改めて思った。まあ、そんなわけで、当初三人で出かける予定だったところを、二人で出かけることになった。買い物に関していうと、収穫はいまいちで、心を動かされるような秋物には巡り合えなかった。けど、色んな店を二人でぶらぶらと見て歩くのは楽しかったし、昼に入ったパスタ屋で食べたトマトとバジルのパスタは美味しかったし値段も安かった。そう、なんだかんだいって今日は楽しい日だった。しかし、この暑さには閉口してしまう。さらに自分の中でくすぶっている欲求にも閉口してしまう。

「英士、ジュースが」
 ふと一馬に肩を叩かれ、一馬の視線の先を追うと、自動販売機があった。
「おごってやるよ」
 また思ってもみない言葉が自分の口から零れる。一馬に対して触りたいなどという欲求を抱いたことにどこか罪悪感を感じてるのかも。罪悪感を感じつつも、おごってやる代わりに触らせて、とかダメかな、ダメだろうな、なんてこと思ってたりもして。…いや、それはほんとに冗談なんだけれど。
 おごってやろうかという言葉に、一馬はあからさまに喜んだ。ほんとに喜んだ。子供みたいに。たかが120円の缶ジュースで。一馬は簡単でいいな。それは決して悪い意味で言ってるんじゃなく。純粋にそう思う。
 何が飲みたいかと訊かれて「なっちゃんのアップル」と即答差し出されたなっちゃん(アップル)を「ありがとう」と慎ましい様子で受け取るせわしなくプルタブを引き上げ、豪快に一気にジュースを飲み干す律儀にも「ごちそうさま」と言ってから空き缶をゴミ箱へ
 なんだか妙に一馬の一連の動作が鮮やかで、目を奪われてしまった。流れるように滑らかな連続した動作だった。一馬はこんなにも鮮やかな所作を身に付けてた奴だった? ごく日常的で何でもないような身振りなのに、容赦なく照り付ける陽の下で、彼のジュース関する一連の所作は不思議なくらい際立って見えた。
 そんなことを考えているうちに、自分の中の欲求にぐっと意識が向いていくのが分かる。もう、日焼けしてないとこがどうとか贅沢いわない。日焼けしてるとこでもいいから。触りたい。
 ひどい。さっきよりも余裕が無くて、要領を得ない欲求だ。暑い。本当に暑い。暑さのせいで、理論的にものを考えようとしても上手くいかない。得体の知れない、曖昧な、でも明確な欲求。本能的に触りたいと思う。
「そろそろ帰ろう」
 一馬にがゴミ箱に投げ入れたなっちゃんの空き缶を見ながら言った。
 触りたいなんて思っても、やっぱり理由が無いから触れない。「あ、虫が付いてる」とか「あ、ごみが付いてる」とか嘘を吐いて、払う振りして触るとか、それではあまりにも救われない。そういう自尊心を傷付けるような類の言動は避けたい。自尊心を優先すると、意外なほど簡単に欲求を押さえ付けることが出来た。まあその程度のもんだ。突発的でとりとめのない欲求を押さえ込むのなんて訳無い。でも、きっと、抑圧されて行き場を無くした欲求は、心や体の底の方に確実に静かに澱んでしまうんだろうな。きっと。

「今度何かおごってやるな。アイスとか」
 駅で別れ際に一馬が言った。
 こういうとこ、ほんと一馬は律儀だ。どれだけ付き合いが長くなっても、そういう部分は変わらない。頑ななまでに生真面目なとこがある。一馬の言葉に曖昧に頷いて、じゃあまたと言って俺達は別れた。
 一馬の後ろ姿を見送りながら、ああもう今日は触る機会も何もかも失われたと思うと、ひどく残念な気持ちになった。…ほんとに残念な気がする。自尊心がどうだのそんな言い訳みたいなことばかり考えていた自分が馬鹿みたいに思えてきたりもして。…いや、こんなことばっかり考えてるなんてちょっといい加減アレじゃないか。さすがにしつこいというか。
 そんなにも触りたかったんだろうか。そんなにも?
 一体何のために?

 なんとなく気が向いて、帰りにその足で結人の家に寄った。
 案の定というかなんというか、結人は自分の部屋で、ごく楽そうな身なりをして、スナック菓子を食べつつゴロゴロしていた。勿論部屋はクーラーが効きまくってる。
「ノンキそうだな」
 ちょっとした皮肉。
「ノンキだよ。見ての通り」
 ちっとも悪びれることなく結人が答える。
「楽しかった? なんか買った? 外暑い? 一馬元気だった?」
 続け様に結人が問う。楽しかった、特に何も買ってない、外暑い、一馬元気、そんなふうに極めて簡潔に結人の問いに答え、答えた後で、ちょっと素っ気無さ過ぎな返答だったかな、と思った。でもまあいいか。
「なーに怒ってんだよ」
 そんなふうに訊いてくる結人の口調はどこか楽しげで、それがちょっとむかついた。
「別に怒ってない」
「どうだか。機嫌悪くねえ? なんか」
「悪くない」
「そう? ならいいんだけど」
「……」
「やっぱ機嫌悪いじゃん」
「悪くないって」
「あ、分かった。一馬となんかあったんだ」
「ない」
 即答。
「ほんとに〜?」
「ほんとに」
 なんか、妙に不毛な会話になってきたような。
「触りたいけど触る理由が見付からなくて触れないときってどうすればいいと思う?」
 不毛な会話を断ち切るために新しい話題を提供しようと思ってたのに、余計不毛な方向に流れていくとしか思えないような話をうっかり持ち出してしまった。
「はあ?」
 いきなり何だよ、と言って結人は不思議そうな顔をした。けど、少しだけ間を置いてから、結人は急に興味深そうな笑みを口元に微かに湛えて「触りたいって、誰に? 何に?」と訊く。そう訊かれると当然のように一馬の顔が思い浮かんだが、まさか正直に答えられようはずがない。
「好きな人とか?」
 相変わらず興味に満ちた笑いを含んだ表情で結人が訊いた。
「まあ、例えば、好きな人とか。好きかもしれない人とか。特に好きってわけでもない人とか」
 断定を避けた酷く曖昧な答え方。そして俺はさらに続けて、
「とにかく、誰でも。誰かに対して、突然、触りたいとかそういう欲求が起こったら、どう対処すべきなのかな、と」
「どう対処すべき? そりゃ触るだろ。欲求にまかせて」
 さも当たり前というように自信に満ちた声で結人が答えた。
「……いや、そんな、いきなり触ったら変だろ。付き合ってるとかだったらいいだろうけど。そういうのでないんだったら、変だろ。理由も無しじゃ」
「理由?」
「そう、触る理由がないとさ」
「そんなの、『触りたいから触る』! 別にそれでいいじゃん」
「そんな簡単に言うなよ」
「そんな難しく考えんなよ。触りたければ触ればいいの。そういうもんだろ」
「そういうもんかな」
「そういうもんです。それで全然OK。触っちゃえ触っちゃえ。もういっそやっちゃえ」
 そう言って結人は笑った。…俺は笑えない。結人の、極端に開けっ広げで直情径行型な意見に呆れながらも、ちょっと結人を羨ましく思ったりもした。『触りたければ触ればいい』っていうのはちょっとどうかと思うけど、『そんな難しく考えることはない』っていうのは言えてるな、とは思う。それは当たってる。あんまり考え過ぎると、身動きが取れなくなってしまう。それに、そもそも、こんな暑くて思考が鈍ってる時に難しいことを考えようとすること自体間違ってるよな、大体。

 結人の家を出て、ようやく帰路に、自分の家に、
 向かうはず、…だったのだけど。
 どういうわけか自分は一馬の家に向かってた。(ほんとにどういうわけだ)
 なんだかんだいってまだ欲求を引きずってるんだろうな。(認めたくないけど)
 一馬と朝から夕方までぶらぶらして、一馬と別れて結人の家に、そして一馬の家へ。思考が鈍るほど暑いとかどうとか言っておいてこの行動量。我が事ながら驚きと呆れを感じてしまう。何をやっているのだか。いや、ほんと、何やってんだろ。まあ、いい。難しく考えるのはよそう。とりあえず。
 ドアを開けて俺の姿を目にした一馬はすごく驚いた様子だった。(そりゃ驚くのも無理はないか。数時間前に別れたばかりだし。)
「英士…、お前どうしたんだよ」
 さすがに触らせてもらいに来ましたなんて言えない。
「…アイスおごってもらおうと思って」
 咄嗟に思い付いた返答がこれ。厳しいなとは思いつつもこれしか思い付かなかったんだから仕方あるまい。
 俺の返答を聞いた一馬は一瞬言葉を失って唖然としたようだった。一馬はしばらくしてから口を開く。
「…アイス…、そのためにわざわざ?」
「まあな」
 やっぱり厳しい。苦々しい気持ちで答える。
「何も今日じゃなくても…」
「そうだな。何も今日じゃなくても」
「変なの」
「変なのかも。こんな暑いし。暑いせいでどっか変になったのかもな」
 なんかもうかなり開き直り入ってきた。
「絶対変だって、お前、今日」
「うん」
 完全な開き直り。あまりに俺が素直に頷いたものだからかどうかは分からないが、一馬はアハハと笑った。気持ちの良い笑い方だなあ。一馬はこんなに鮮やかな笑い方をする奴だっけ。
 一馬が笑ってる。
 やっぱり触りたい。そう思った。
『やっぱり触りたい』
 本当はドアが開いて一馬が目の前に現れた瞬間から強く思ってた。ほんと、今日はどうかしてる。一体どうしたっていうんだろ。…いや、難しく考えるのはよそうと決めたんだった。
 一馬を前に、自分の体から透けて見えるんじゃないかと不安になるくらいの濃い欲求が内側で沸き上がる。やっぱり触りたい。
 疾走する情動…充血していく欲求…
 今ここで抑制したら後で大変なことになりそう、な気がする。(大変なことってどんなこと?)
 ほんの少し、少しでいいから、指先でいい、数秒でいい、触りたい、触りたい。未だかつて、こんなにも強い欲求を抱いたことがあるだろうか。(これは反語ではなくてただの疑問)
 さわりたい。あまりにもさわりたい。触りたいという欲求が強過ぎて、どこかがプツリとちぎれそう。(どこかってどこだろう)
「アイス、近くのコンビニに買いに行こっか」
 明るい声で一馬が提案した。そんな声さえも欲求を刺激して、答えることがままならない。
 一馬は俺の返事を待たず、財布取ってくる、と言って、くるりと背を向ける。
 ちょっと待って! 制止したい気持ちが溢れ出て、胸が詰まって喉が詰まる。言葉が出なかった。
 気付いたら、一馬の腕を掴んでいた。
「…? 何?」
 引き止められた一馬は、疑問の声を上げる。
 やっと触れた。
 そう思いながらも、欲求は混線状態で、もう自分自身満足なのかなんなんだかよく分からない。
「やっぱ、アイスはいい」
 腕を掴んだまま言う。
「え?」

 アイスはいいから。どうか、もうしばらく触らせて。






・終わり・





Aug.16,2000

タイトルも、「ふれたらもうトリコになるから」というフレーズも、
the autumn stoneの曲「中央特快」から。

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