☆およぐな! たいやきくん☆


 郭英士、二十歳。フィッシング(どうして素直に『釣り』と言わないのだ)が趣味の大学二年生。ある日彼は、海で人間を釣った。そう、人間、を釣り上げたのだ。少なくとも、誰の目にも“それ”は人間に見えた。“それ”は英士と同じ年頃の男に見えた。しかし“それ”は、自分のことを“たいやき”だと言うのだ。
「俺、こう見えても、たいやきなんだ」
 釣り上げられた“それ”は、驚いて腰を抜かしている英士を前にしてそう言った。
「たいやきなんだとか言われても…、いや、その、一体、君は、」
「どう見ても魚に見えるだろ、俺って。でも、魚じゃなくて、たいやきなんだ」
 英士は頭を抱えた。英士が釣ってしまった“それ”は、どう見ても人間だ。“それ”呼ばわりするのも“それ”に失礼な気がしてきたので、自称たいやき、と呼ぶことにしよう。自称たいやきの話はこうだ。毎日毎日鉄板の上で焼かれて嫌んなっちゃった自称たいやきは、ある朝店のおじさんとケンカして海に逃げ込んだ。初めて泳いだ海の底はとっても気持ちが良かった。お腹のアンコは重いけど、海は広く、自称たいやきの心は弾んだ。桃色珊瑚が手を振って、自称たいやきの泳ぎを眺めていた。自称たいやきは、難破船を住み処にして、毎日楽しく過ごしていた。ときどき鮫に虐められもしたが、そんなときは逃げればよかった。一日泳げばお腹が空いて目が回った。たまには海老でも食べないと、塩水ばかりじゃふやけてしまう。自称たいやきが岩場の陰から海老らしきものに食い付いてみると、それは海老ではなく小さな釣り針だった。どんなにもがいても、喉から針が取れない。そして自称たいやきは浜に引き上げられ今に至る。
「と、いうわけなんだ」
 自称たいやきの吊り上がった大きな目は真剣そのものだった。とても冗談を言っているようには見えなかったが、これを悪い冗談と呼ばずして何と呼ぼう。英士は腕を組んで、うーん、と唸り、この思いがけない奇妙な事態にどう対処すべきかと頭を悩ませた。
 自称たいやきは、大きなくしゃみを一つして体を震わせ、さむい、と呟くように言った。自称たいやきの、びしょびしょに濡れた体は痛々しくもどこか艶かしい。きつい目が伏せられ、くっきりとした二重瞼が強調される。自称たいやきは、今度は小さなくしゃみをする。凛とした雰囲気を纏っているのに、片手で軽く握り潰してしまえそうな弱々しさがあった。彼は、たいやきにはとても見えない。魚にも見えない。しかし、魚を思わせるような何かはあった。どこか掴み所のない深さや冷たさや脆さを体の中に秘めている感じがした。
 「仕方ないから、俺の家においで」
 英士が自称たいやきの腕をそっと掴むと、自称たいやきは、驚いたような目で英士を見た。
 「風呂に入って着替えた方がいい。風邪を引くといけないから」
 果たして、たいやきが風邪を引くのかどうか。

 英士が暮らすアパートの一室を訪れた自称たいやきは、入るなり「うわー狭くて薄暗いなあ」と率直な感想を述べた。しかし、言ってしまった後で、悪いと思ったのか、「いや、でも、狭い方が落ち着く? といえば落ち着く、よ、な? ああ、ええと、掃除も楽だし」とフォローした。
「…奨学金とバイト代で生計を立ててる貧乏な大学生なんだ。いいとこには住めないよ」
 英士は自称たいやきの反応に少しだけ傷付いていた。
「そうか、貧乏なのか。だから痩せてるのか」
 自称たいやきは英士の腕を掴みながら、納得したように頷く。
「いや、別にそういうわけじゃ…。体型は元からこうなんだけど」
「ふうん。ああ、でも、もしお腹が空いてどうしようもなくなったら、俺のこと食べてもいいよ」
 尻尾の先までアンコが入ってるんだ、と言って自称たいやきは足の指を動かしてみせた。そこで英士はアンパンマンを思い出す。ぼくの顔をお食べ、そう言って自分の顔をむしり取って、お腹を空かせた人に与える正義の味方アンパンマン。幼い頃英士は、そのシーンを見ては、これはありなのだろうか…とどことなく不吉な気持ちになったものだった。
「あんた、たいやき、好き?」
「ごめん、俺は、甘いものはあんまり」
 英士の返答に、自称たいやきは心底傷付いたような顔をして、そうか、と返して俯いた。
「君、名前は? あ、俺は、郭英士。英士、でいいよ」
 自称たいやきの落ち込んだ様子に、英士は少しだけ動揺し、何か別の話題を、と思う。そこで、そういえば名乗り合っていないことに気付いたのだった。
「英士…か。いい名前。いいなあ。俺は名前なんてないよ。だって俺は、たいやきだから」
 自称たいやきはさらに沈んだ表情になった。
「いつまでも濡れたままじゃいけないから、早く風呂に入った方がいい。君が風呂に入ってる間に、俺が君の名前を考えておくよ」
「ほんとか!?」
 自称たいやきは目を輝かせ、英士の両腕を強く掴んだ。自称たいやきの大きな喜びぶりを微笑ましく思うとともに、いい名前を考えなくては、というプレッシャーが英士の胸に湧いてくる。
 名前を付けてもらえることに大変気を良くした自称たいやきは、英士の腕を掴んで離さなかった。そんな自称たいやきを引きずるようにしてユニットバスまで連れていく。風呂の使い方を簡単に説明して去ろうとした英士の腕を、自称たいやきは離そうとしない。
「一緒に入ろう」
 自称たいやきの提案に、英士は少なからず動揺した。
「いや、俺は後で入るからいいよ」
「どうして? 二人一緒に入った方が水道代もガス代も節約できるだろ」
「いや、でも、そんな、一人で入っても狭いのに」
「大丈夫大丈夫」
「いや、でも、俺は、君の名前を考えないといけないし」
「うん、考えてて。俺、邪魔しないよ。静かにしてる」
「いや、でも、まずいだろう」
 言ってしまった直後に、まずいとは何がどうまずいのか、という疑問に突き当たり、英士は頭をガツンと殴られたような思いになった。男同士(いや、どうなんだろう、たいやきに性別はあるのか? けれど、この自称たいやきは、どう見ても男に見えるのだ)でまずいも何も、いや、でもしかし、確かにまずいと思ってしまったわけで、ということはつまり、そういうことなのか、意識してしまっているのか、あわあわあわ。英士は慌てた。まずいって何が? と自称たいやきに突っ込まれる前に、「分かった、じゃあ一緒に入ろう」と答える。
 二人で入ると、風呂は本当に狭かった。身動きが取れないほどだ。
(苦しい…、物理的にもものすごく苦しいんだけどそれ以上に何か心理的にとてつもなく苦しいような…)
 英士は目を伏せ、眉を顰めて、難しい表情になる。
「名前、思い付いた?」
 英士の顔を覗き込むようにして、自称たいやきが訊いた。英士ははっとしたように目を開け、「ま、まだだよ」と、ぎこちなく答える。すると、自称たいやきはさも残念そうな表情になり、「ふうん、そっか…」と言って、顔を鼻まで湯に埋めた。
 あまり見ないようにしよう、と思ってはいるものの、英士は自称たいやきの体をついつい眺めてしまう。
「君、ほんとのほんとにたいやきなの?」
「うん」
「でも…だって…どう見ても…」
 自称たいやきは丸裸になってみてもやはり人間(性別は男)にしか見えない。
「どう見ても魚に見えるって言いたいんだろ? でも、俺、たいやきなんだ」
 いや、そうじゃなくて。英士は言い返そうと思ったが何故か言い返せず、黙り込むしかなかった。
「俺が、嘘をついているように見える?」
 水の跳ね返る音と、自称たいやきの深刻な声がこだまして、英士の鼓膜を強く震わせた。自称たいやきは英士の両腕を掴み、真っ直ぐに目を合わせてくる。真摯で鋭い眼差しに射止められてしまい、英士は目を逸らそうとしても逸らすことができなかった。
「君が、嘘をついているようには見えないよ、でも、俺には、君がたいやきにも、魚にも見えないんだ。でも、嘘をついているようにも、見えない。俺は君を、信じたい、でも、」
 たどたどしく紡がれる英士の言葉は、突然の口付けで封じられた。
「英士の唇ってすごく薄いんだな」
 短いキスの後、自称たいやきは英士の口元に手を伸ばす。その手を掴み、英士は自称たいやきの体を引き寄せた。何度も何度も口付ける。キスの合間、自称たいやきは喘ぐように息を継いだ。魚のように見えなくはなかった。浜に打ち上げられた魚だ。

 風呂から上がり、英士は、湯にのぼせてぐったりしている自称たいやきをベッドに組み敷く。自称たいやきの腕を押さえ付け、唇を合わそうとすると、自称たいやきは弱々しく英士の胸を押し返した。
「俺の名前は? なまえ、なまえ、なまえ、なまえ、なまえ、」
 自称たいやきは、うわ言のように、なまえ、と繰り返した。英士は目を瞑ってしばらくの間考え込み、
「一馬にしよう。一(いち)に、馬(うま)で、一馬、ね、いい名前でしょう」
「一馬…、ほんとだ、いい名前」
 ありがとう、と言って、自称たいやきは目を閉じ、英士の背中に手を回した。

 それから自称たいやき…一馬は、英士の狭くて薄暗い部屋で一緒に住むことになった。一馬はすっかり英士に懐いていたし、そんな一馬を、英士は愛しく思わずにはいられなくなっていた。幸せな日々が続いた。
 ある夜、一馬の泣き声で英士は目を覚ます。
「どうしたの?」
 一馬の背中を擦りながら英士が問うと、一馬は英士にしがみつき、「店のおじさんに会いたい」と言った。一馬の言葉は、英士にとって思いがけないものだった。英士は少なからずショックを受けた。
「俺がずっと一馬の側に居るよ。それじゃ駄目なの?」
 安っぽいドラマのようだ。英士は自分の台詞に目眩を覚えた。しかし、本心なのだから仕方ない。
「だって英士は、たいやき嫌いなんだろ」
 その言葉に、英士は一気に力が抜けそうになった。
「お前ねえ…」
 どう言い返せばいいものかと思っていると、一馬は英士に抱き付いた状態のまま眠ってしまっていた。なんて勝手なんだろう。呆れてしまう。それでもこの未だに得体の知れない自称たいやきを手放すことはできないのだ。英士は幸福感に満たされて、恥ずかしいような気持ちになった。
 次の日、英士は昼前に目覚めた。まだ眠っている一馬を起こさないようにして準備をし、学校に行った。授業を終えて五時頃に帰宅すると、おかえりなさい、と言って一馬が抱き付いてきた。新婚さんみたいだ…、などとアホなことを思って、英士は少しにやけた。
「今からバイトに行ってくるから。帰るのは夜中になるから先にご飯食べて風呂入って寝てていいからね」
 一馬の体をやんわりと押し返しながら英士が言うと、一馬は不機嫌そうな表情になった。
「今日は休めば?」
「無理だよ」
「英士ってほぼ毎日バイトじゃん。俺いつも一人で寂しい」
「来週の土曜日は休みもらったから二人でどこかに行こう」
「店のおじさんはいつも一緒に居てくれたよ」
 我侭言われるのも悪くないなあ、などと甘い気持ちに浸っていた英士は、一馬のその言葉で一気に凍り付いてしまった。気分を害した英士が黙って出ていこうとすると、一馬は慌てて英士の腕を掴み、ごめんなさい、と謝った。
「怒った? 英士、怒った? もう俺のこと嫌いになった?」
 一馬は酷く傷付いた目をしていた。傷付いたのはこっちの方なのに、と英士は感じながらも、一馬の様子を見ていると、自分の方が悪いことをしてしまったように思えてくる。英士は一馬の髪を撫で、額にそっと口付けた。
「怒ってないよ。好きだよ」
「ほんとに?」
「うん」
「よかった」
「じゃあ行くけど。いい子にしてるんだよ」
「いい子にしてるよ」
「うん」
「俺、ちゃんといい子だよ」
「分かってるよ」
「だから、ここに置いて」
「うん」
「名前呼んで」
「一馬」
「もう一回」
「一馬」
「ありがとう英士、ごめんな」

 英士のバイト先は居酒屋だった。バイト中、家に残してきた一馬のことが気がかりで、英士はぼんやりしていた。休憩時間に、家に電話をしてみるが、一馬は出ない。英士は不安な気持ちになった。早くバイトが終わればいい。そう願えば願うほど、時間が経つのが遅く感じられた。やっとバイトが終わり、英士は急いで帰る準備をして店を出る。
「お疲れ様」
 店の前で立って待っている一馬を見て、英士は息が止まるほどに驚いた。
「…一馬…」
「迎えにきてやった。しかも差し入れ付き。俺、いい子だろ」
 一馬は英士に紙袋を差し出す。英士がそっと紙袋を受け取って中を開けると、たいやきが入っていた。おいしいよ、と言って、一馬は柔らかく微笑んだ。二人でたいやきを食べながら帰った。
(これって共食いなんじゃ…)
 たいやきを頬張る一馬を横目でちらりと見ながら英士は思った。

 翌朝、英士が目覚めると、一馬は既に着替えていて、今にも外出しそうな雰囲気だった。
「出掛けるの?」
 欠伸を噛み殺して英士が問うと、一馬は小さく頷く。
「店のおじさんに会いに行ってくる」
 その言葉で英士の眠気は一気に吹っ飛んだ。英士が何か言おうと口を開く前に、一馬は続けて言う。
「謝りに行くだけだよ。夕方までには戻ってくるから。店のおじさんに謝りたいんだ。つまらないことでケンカして、そのまま出てっちゃってそれきりになってたから、すごく気がかりだったんだ。謝って、それで、今は大事な人と一緒に暮らしてて幸せです、ってちゃんと伝えてくる」
 一馬の目からは強い意志が感じられた。
「俺も一緒に行くよ」
 英士はどこか不安な気持ちになった。悪い予感がする。もしかしたら、一馬は戻ってこないかもしれないと思うと、気が気でなかった。
「英士は学校あるだろ」
「でも、」
「絶対英士のところに帰ってくるから、絶対」
 俺が嘘をついているように見える? 一馬はそう言って、英士の目を真っ直ぐに見つめた。英士が弱々しく首を左右に振ると、一馬は英士の小指に自分の小指を絡ませて、ゆびきりな、と言った。
 英士は、もう一馬が帰ってこないような気がしてならず、一馬とずっと小指を絡ませたままでいたいと思った。


 



Feb.25,2002
 タイトル見ての通りですが、「およげ!たいやきくん」の歌を元ネタに作った話です。
特に本文「毎日毎日鉄板の〜浜に引き上げられ今に至る」は、歌の内容のままですネ。



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