生まれて此の方流れ星など見たことない。
さてでは僕は何に願いを託せば?
僕の願いを叶えてくれる神様はどこに?
僕は昔から願い事はお月様にしていたよ。
僕の神様は月に住んでいる。






月の見えない夜はふあんでふあんで仕方がないわ神様の光が届かない夜なにか悲しいことが起こりそうな気がしてふあんでふあんよだからお願い一人にしないで今夜だけは側に居て貴方さえ隣りに居てくれるのならば何も怖くないわ神様なんかいらないわ











 月 に 願 い を 







 激しい感情の渦。情動の淵の淵に追い詰められていた。面と向かって誰かに何かをこんなにも強く要求するのは初めてだ。しかも理屈に合わない要求。結人は笑って軽く受け流そうとしてるけど、内心酷く困惑しているに違いない。口元は笑っていても、紡ぎ出す言葉は軽くても、眼の奥に潜む戸惑いの色は隠しきれない。

 今日は結人の彼女の誕生日だ。結人は結人の彼女の家に午前11時に行かなくちゃいけない。結人は結人の彼女とそう約束している。現在の時刻午前10時18分。

 昨夜結人の家に電話をかけて、貸してたCDを返してほしいと言った。
『明日じゃないと駄目なのか?』
「うん」
『明日はちょっとなあ…』
「なんか用があんの?」
『ああ、うん。朝から彼女と約束。誕生日なんだ』
「ふうん」
(知ってたけど)
『ああ、帰りに寄ろっか? 何時くらいになるか分かんねーけど』
「行く前に寄れよ」
『え、めんどくさ!』
「んじゃ、明日の朝な」
『おい、ちょっと待
 ピ
<通話終了>
 こんなふうに一方的にものごとを決めて電話を切るのは結人のやり口で、俺はそういうことは今までしたことがなかった(と思う)。

 どうせ来ないだろうと踏んでいたけど律儀にも結人はちゃんと貸してたCDを持って今朝家に来た。午前10時10分。
「まさかほんとに来るとは思わなかった…」
「自分が来いって言ったくせに」
「でも結人のことだから来ないと思ってた」
「どうやら君は僕を少し誤解しているようだね」
 どうせいつもの気まぐれだ。今更こんなことで『結人って実は優しいんだ…ドキン』とかってときめくほど俺は間抜けじゃない。
 ほらよ、と言ってCDを渡し、じゃあ俺もう行くから、と背を向けようとする結人の腕を掴んだ。そして、口から出た言葉は、

「行くなよ」

 時間が凍った。
 ほんの少しの間があって、
「何言ってんだか」
 結人が笑って腕を振り解こうとした。
 が、俺は結人の腕を離さなかった。

「こらこら、離しなさい」
「嫌です」

「何考えてるんですかアンタは」
「行っちゃ嫌です」
「アホですかアンタは」
「アホで結構です」
「ほんと何考えてるんですかアンタ」
「今日だけは一緒に居て下さい」
「今日だけは一緒に居られません」
「今日だけは」

 お願い、もう金輪際絶対にわがまま言わないから、お願い、今日だけは、側に、側に。強い欲求。今にも嗚咽しそうなほど。

「ところでなんで敬語なんですか?」
「知りません」

 足を切ってでも、腕を折ってでも、首を落としてでも、行かせたくない。行かせない。行かせるわけにはいかないんだ。今結人が行ってしまったら、自分は死んでしまうような気して、でもそんなふうに言うのはプライドが許さない。(もうプライドなんてそんなもの彼の前では粉々に崩れてしまっているのだけれどでも申し訳程度のプライドが胸の中必死でもがいている)
 だから、
 他の人のせいにして
 他の人を殺した。
「死んじゃったんだ」
「え?」
「お父さんとお母さんが死んじゃった」
「はあ!?」
「今朝、夢の中で。
 だからお願い、今日だけは側に居て」
「何も今日に限ってそんな縁起でもない夢を見なくとも」
「結人が一緒に居てくれたらもう悪い夢は見なくて済むと思う」
 誰も死なずに済む。
「でも今日は、特別な日なんだ」
「彼女の誕生日だろ? それはもう何回も聞いたよ」
「だったら、」
「結人はよく約束破るじゃん。三人で会おうって約束してたのにいきなり彼女の方を優先したりとかそういうの、今までに何回もあっただろ。お前はいつだっていい加減で勝手で、でも結人のわがままは通ってきたよ。ずっと通ってきた。だから。今日くらいわがままを聞く側に回れよ」

 我ながら酷く幼稚で無茶苦茶な意見だ。結人はもう戸惑うのを通り越して呆れてるだろう。うんざりしてるだろう。結人は黙っていた。どんな顔をして俺の話を聞いてるんだろう。怖くて顔を見ることができない。沈黙。焦る。心臓が痛い。何か言わなきゃいけない、と思った。何か、言わなきゃ。この重苦しい沈黙を打破しなくては。何か、何か、

「どうしても行くっていうんなら、
 仕方ないから、結人を殺して俺も死ぬ」

 やばい、完全に、鬼気迫ってる。こんなこと言うくらいなら何も言わない方がまだマシだ。後悔どころかもう完全に自分自身に呆れてしまっていっそ笑えるよ。

 しばらくしてから結人が吹き出した。
 あ、良かった。
 でもとりあえず念を押しとこうと思って、
「冗談だよ」
「分かってるって」
「ならいいけど」
「でもアリだ」
「アリとは?」
「そういう死に方はアリだな、と」
「……いや、絶対ナシだろ」
「うん、まあ、ナシといえばナシだな」
「どっちだよ」
「わはは」

 ふと結人の手が俺の額に伸びてきて、思わず少しだけ身を引いてしまう。お構いなく結人の指が俺の前髪を梳く。どきどきしながら目を閉じた。なんて優しい感触だろう。あたたかい指、やわらかい動き。いつもは乱暴なくせに、こんなときだけ。
“ごめんな、俺、やっぱり行かないと。一人でも大丈夫だよな?”
 結人の口から吐き出されるであろう言葉を想像してみたりした。
 でも結人が口にした台詞は予想に反するものだった。
「負けたよ。しゃーねー。今日は一緒に居てやろう」
 驚いた顔で結人を見ると、
「これは高くつくぜ〜」
 と冗談ぽく結人が言った。

「結人、ごめん」

 結人はちょっとだけ笑って、彼女に連絡しとかなきゃ、と言って携帯を取り出す。現在の時刻午前10時29分。


 結人はうちに泊っていくことになった。午後10時、結人は俺の部屋でテレビを見ていて、俺はベランダで空を見ていた。春の夜は好きだ。暑くも寒くも暖かくも涼しくもない。夜、ただそれだけ。今宵、空は真っ暗で、星も月も何も見えない。
 手摺から身を乗り出して下を見た。何も見えない。なんて暗い夜だろう。
「一馬、落ちるなよ〜」
 部屋の中から結人の声がした。
 今、下に落ちて死んだら、お星様になれる気がした。幸せは空の上にある。ここからずっと上空、高く遠く、ずっと、ずっと、遥か上。背伸びして手を伸ばしても届かない。助走つけてジャンプして手を伸ばしても届かない。全然届かない。指先すら、掠りもしない。

 月に願いを。
 でも今夜は月が見えない。厚ぼったい闇。神様が隠れてる。誰の願いにも耳を貸さない。何に願えばいいんだろう。(でも本当は痛いくらい分かってるんだ。願いは叶わない。何に願ってもどんなに願っても願いは願いでしかありえない。むしろ願えば願うほど願いは現実から遠ざかってしまう。それでも願わずにはいられないときがあるんだ。強く願っているときは、何も考えずにすむ。他のことを、何も)(現実から切り離された強い願望の行方は? それはここからずっと下、低く遠く、ずっと、ずっと、遥か下。重みに耐えかねてどこまでも落ちていく願い。見えなくなるまで落ちていく。見えなくなってもまだ落ち続ける)

 ピ〜ポ〜ピ〜ポ〜。

 あ、この音。

「なあ、結人、サイレンの音しない?」
「サイレン?」
「救急車のサイレンの音がする」
「するか〜〜?」
「ピ〜ポ〜ピ〜ポ〜」
「自分で言ってんなよ」
「聞こえるじゃん」
「聞こえねーって」
「なんで聞こえねーんだよ」

 なんで。なんで聞こえないんだ。サイレン鳴ってる。なんで聞こえないの結人なんで?
 酷くイライラした。頭痛がする。

 ピ〜ポ〜ピ〜ポ〜。

 ああ、やっぱり、サイレンの音、する。誰かが心臓発作を起こしたのかも。どこかで交通事故が起こったのかも。月の見えない夜。神様のいない夜。不幸が起こりやすい。救急車が走る。忙しない。ピ〜ポ〜ピ〜ポ〜。なんで結人は聞こえないんだろう。こんなにも鳴ってる。強く鳴ってる。苛立ちと悲しみと、漠然とした諦めのような気持ちが胸に広がっていた。不幸が起こる。起こってしまう。それはもうどうしようもないことだ。曖昧に悲しい。曖昧だけれど広大な悲しみ。でもその全てを受け入れる準備はもうずっと前から出来てる気がした。サイレンの音はまだ止まない。頭痛がする。

 どこかで誰かの身に悲しい出来事が降り注ぐ。(月の光が降り注ぐ代わりのように降り注ぐ)


 背を向けて眠る結人の後頭部をずっと見てた。一緒のベッドで眠るのは布団を敷くのが面倒だから。(言い訳?)
 手を繋いで欲しかった。手を繋いで眠りたかった。でもあんまり望むと不幸になる気がして何も言えなかった。眠れない。
「あー、も〜、気になって寝られやしねー」
 背を向けて寝ていた結人がいきなりこっちを振り向くから心臓が止まるかと思った。
「なんか視線を感じるから気になるんですけど」
「ごめん」
「眠れないのか?」
「うん、まあ」
「怖い夢見るから?」
「うん、まあ」

「結人、キスしたことある?」
「何、いきなり」
「なんとなく」
「一馬は?」
 質問を質問で返されるのは好きじゃない。
「ない」
 嘘だった。一番最初は小学校低学年のとき、七つ年上の従姉に冗談でキスされた。あと、最近だと、同じクラスの子と、一緒に帰った成り行きでしたことあったな。あと、前に付き合ってた子とは普通に何回かしたし。なんで嘘を吐いてしまったんだろう。
「俺は何回もあるよ」
 結人が言った。嫌な気分になった。自分も何回かしてる(さらに嘘まで吐いた)のに、結人がしたことあるってちゃんと分かってたのに、結人の口からはっきり言われると気分が悪い。なんて心が狭いんだろう。
「でも一人の子とだけな」
「今の彼女?」
「そう」
 ちょっと意外だった。もっとたくさんの人としてそうなのに。意外だ。なんだかやけに悲しくなった。今の彼女が羨ましくて、胸が苦しかった。傷付いてしまった。こんなこと聞かなきゃよかった。なんでこんなこと聞いたんだろう。

「一回チューしてやったら、お前、もうおとなしく寝るか?」
「うん、寝る」

 唇を掠めるだけの軽いキス。
 え。
 これだけ?
 うそ?
 子供騙しもいいとこだ。

「なんだよ、その不満そうな顔は」
 むっとした顔で結人が言った。
「不満だよ」
 正直に答えると結人はさらにむっとした顔になった。だってほんとに不満だよ。でも約束は約束で、一回キスしたらおとなしく寝るってことになってたから、おやすみ、と一方的に言って結人に背を向けた。






 見渡す限り一面の花畑。甘い香りが漂っていた。こんなに美しい光景はどんな映画の中でも絵本の中でも見たことない。この世の幸福を全てちりばめた場所。恍惚とした気持ち。脳が麻痺してくる。真っ青な空には丸い月が出ていた。昼間なのにこんなにもはっきりと月が見えるなんて。満月は幸福の象徴だ。月が辺り一面を照らしていた。なんて輝かしい世界。ここには僕しかいない。圧倒的な幸福。幸福の独占。幸福と同じ分量の孤独。ここには僕一人しかいない。一体ここはどこだ。月が僕を見ていた。







 ピ〜ポ〜ピ〜ポ〜。

 あ、サイレンの音。

 どこかで誰かの身に何かが起こったんだ。月は満ち世界は明るいのにどこかで誰かに不幸が訪れる。そんなバカな。そんなことがあってたまるか。

 でも、現に、サイレンの音が、
(ああ、また、頭痛が、)










 朝、起きると、目から涙が零れていた。隣りを見ると、既に結人は起きていて、俺の顔を覗き込んで、
「怖い夢見た?」
 咄嗟に袖で目元を拭って、ゆっくり首を振った。
「さっき、救急車通んなかった?」
「いや?」

 でも確かに、サイレンの音がしたんだよ。
(でもそれは夢の中のはなしかもしれない)

 どこかで、誰かの身に、悲しい出来事が、
(今ここで、僕の身に、悲しい出来事が、)

(でもそれは夢の中のはなしかもしれない)

 結人には聞こえない。結人には分からない。
 ずっと前から分かってたよ。

 頭痛がするんだ。結人には分からない。絶対に分からない。未来永劫。けれども、
「結人が怖くて一人じゃ居られないときには何があっても絶対側に居てやるから」
「ははは、そりゃありがたいことで」
「もしその日が親の葬式でも」
「縁起でもねー」

 これは愛の告白だ。一方的で、とても独り善がりな愛の告白だ。これは二人の間の約束じゃなくて、俺の勝手な誓いを勝手に表明しただけに過ぎない。ただの自己満足に過ぎない。結人には、俺じゃなくて、側に居てくれる人がいるだろう。俺が結人を必要としてるほど結人は俺を必要としてない。そんなことは分かりきっている。ずっと前から分かってたよ。ずっと前から。

「じゃ、側に居てもらおうかな」
 うそつき。憎しみが込み上げて、同時に喜びも込み上げて、冗談だって分かってるのに本気で辛かった、冗談だって分かってるのに本気で嬉しかった。永遠に届かなく思えた幸福が一瞬だけ近くに見えた気がした。
 自分から結人に口付けた。
 唇が離れてから、
「そのうち一馬にも、好きな女の子ができるよ」

 最低。頭から冷たい水を浴びせられたような気がした。最低だ。

 再度キス。
 遠慮がちに入ってきた結人の舌を噛んでやった。

「…! いてーな、おい!」
「死んでしまえ」


 噛み切らなかっただけありがたく思え。




























Apr.10,2001


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