君達のいない世界はとても穏やかです。
胸を焼く焦燥も、胸を焦がす情熱も、胸を揺する共感も、何も無いのです。
音も色も匂いも曖昧な場所。暖かくも寒くもない場所。
君達と一緒の場所は、あんなにも暖かくて優しい場所だったのにね。
でも、僕は、君達のいない世界を選ぶよ。
これでもう誰も傷付かずにすむよね。
wonderful world
英士と結人がキスしてるのを見たとき、俺は本当に驚いて、心臓が口から飛び出してしまうかと思った。大げさな比喩だけど、でも、本当にそんな感じだったんだ。『おいおい嘘だろ!?』って思った。 けど、それは嘘じゃない。よくよく考えてみれば、思い当たる節はいくらでもあったんだ。今まで、分かってたけど、目を逸らしてただけなのかもしれない。 英士と結人は、好き合ってるんだ。友達とかそういう意味だけでなく好き合ってる。 そう、ほんとは、前々から予感はあった。だって二人の間の空気って、妙に親密で濃密で、俺ちょっと入っていけないなあなんて思うことあったし。だけど、実際に目の前に真実を突き付けられたときの衝撃は、どんな想像上の衝撃とも比較しようがないほどに凄いものだ。 あのキスは、冗談なんかのキスじゃない。直感が、今までずっと続いてた薄らとした予感と強く結び付いて、深い真実が胸の中に鮮やかに現われる。激しい衝撃は、重く複雑な感情に変わって、形容し難い悲しみを生んで、そして。そして今は、とても静かな気持ち。本当に静かな気持ち。きっと、考えることとか感じることを一時的に拒否しようとしている状態。 とても静かだ。 心臓、ちゃんと動いてんのかな? ちっとも自分の動悸を意識することが出来ない。 英士と結人ってお似合いだよな、うん。ほんとにそう思う。好き合って付き合って、それでいいじゃないか。俺は祝福すべきだよな、うん。そう。それでいい。それでいいんだ。 だからもうこれ以上は、何も考えないようにしよう。ていうか、俺、関係ないし。英士と結人、二人の間のことだもん。俺、関係無いじゃん。考えたって仕方無いし。うん、そう、俺には関係の無いことなんだ。全然・全く・ちっとも・これでもかっていうくらい、関係の無いこと。英士と結人は両思いで、うん、そう、でも俺は英士とも結人とも友達だってことには変わり無いはず。だから、別に、俺が何かを嘆く必要なんか無い。確かに今後は、お二人さんに気を遣うよう意識しなきゃならない場面もあるだろうけど。俺は平気、大丈夫、ちゃんとできる。普通に。自然に。何でもないみたいに。『みたい』に? や、そうじゃなくて。『何でもないみたい』じゃなくて『何でもない』んだ。何でもないことだ。そう、大丈夫。全然大丈夫。 そして、静まり返ってく胸の中。 一旦胸を閉ざすと、目の前に広がる景色の色彩がどんどんと失われていって。自分の内側のあらゆる情動がじわじわと鈍くなっていく。なんか、もうほんとに、どうでもよくなってきちゃった。 別にいつも通りに振る舞ってるつもりだけど、二人は俺の変化に気付いて、なんだか心配してるみたい。やだなあ、察しの良い人間はこれだから。 「英士のことが好きなら好きって言えよ」 結人なんかいきなりこれだもんな。いきなりそんなこと俺に言ってくんの。なんなんだよ、もう。しかも、すごい真剣な顔して俺を問い詰めるんだもん。怖いよ。びっくりするじゃん。飲んでたリンゴジュースが気管に入るかと思った。 「好きだよ」 って答えたら、一瞬、結人の動きが止まった。 「英士も結人も好きだよ。どっちも大事な友達だもん」 って続けて言ったら、結人がガクッと脱力した。 「そーゆー意味で言ってんじゃねえよ」 「じゃあどういう意味?」 「どーゆー意味って、お前なあ」 「あ、このリンゴジュース美味しい。甘さ控えめで。どこのメーカーだろ」 「も〜、か・ず・まー!」 「やっぱ、リンゴジュースが一番だよな」 「ほんとは俺が言ってることの意味理解してるくせに」 「オレンジジュースよりもリンゴジュースのが美味しいよな」 「ほんとは英士のこと好きなくせに」 「100%のも美味しいけど、30%とかのも美味しい」 「ほんとは俺に嫉妬してるくせに」 「リンゴそのものよりもリンゴジュースのが美味しい」 「ほんとは怒ってるくせに。辛いくせに。我慢してんだろ?」 「ああ美味しい」 「人の話を聞けっ!」 結人が大声を上げた。 「聞いてるよ」 「ほんとのこと言えよ!」 どう返答すればいいのか分かんないや。 「後悔するぜ?」 どう返答すればいいのか分かんない。 「ほんとのこと言わないと後悔するよ」 どう返答すればいいのか…、 ほんとのことって何だろう? なんで結人はそんなに俺に『ほんとのこと』を言わせたがるのかな。結人は俺にどんな『ほんと』を望んでるのかな。そんなに結人は俺が英士のことを好きなことにしたいのかな。なんでなんだろう。結人は一体どうしたいんだろう。俺に何を望むんだろう。俺はどうすればいいのかな。 「自分一人で勝手に我慢してんなよ! 一人で勝手に全部背負い込んでんな! 自分だけが辛いだなんて思ってんじゃねえぞ!」 怒りと悲しみを込めた声で結人が言う。 なに、結人、なんでそんな怒ってんの? なんでそんな辛そうなんだ? 心が冷たくなってく感じ。心の中がとても冷たい。真冬の朝、手袋をしてない指先がかじかんで真っ赤になって上手く動かなくなって感覚がひどく鈍くなってるようなそんなふうな決定的で具体的な冷たさが心の中を侵してる。 内側に充満する強い冷気。麻痺してく神経。胸ん中、閉ざされてく。 何も考えたくないなあ。うん、もう、何も考えたくない。 俺は目をつぶった。 英士にはこんなことを言われた。 「最近えらくおとなしいな」 いやに遠回しな言い方だなあ。英士らしいけど。なんか、やだ。そういうの。なんか嫌な感じ。 「そっかな」 「そうだよ」 「そう」 「心配だよ」 「別に何もないから心配しなくていい」 「結人も心配してる」 そっか。英士は俺を心配してるっていうより、俺のこと心配してる結人のことを心配してるんだ。なんて、卑屈? ちょっと自己嫌悪。でも、多分、俺の予感は外れてない。悲しい予感。俺って結構鈍い方なんだけど、こういう悲しい予感だけは何気に当たることが多い。皮肉な話だなあ。ていうか、悲しいことなんか予感しちゃうから、実際に悲しいことが起こっちゃうんだ。悲しい予感が悲しい出来事を産み落とす。皮肉な話。 そして俺はまた胸を閉ざす。閉ざさざるを得ないんだ。 何も考えたくないなあ。 「俺、帰る」 「え、ちょっと、一馬…」 「悪い。用事思い出したんだ」 「用事って何だよ」 えーっとえーっと… 「『忍たま乱太郎』見なきゃ」 実に苦しい。でも適当な言い訳が思い付かなかった。 「…嘘つけ」 「ううん。ほんと。俺、帰らなきゃ。ごめん」 「ちょっと待てよ、一馬!」 英士に腕を掴まれる。 一瞬、心臓が止まるかと思った。感覚が鈍ってしまってるはずの閉ざされた胸が熱くなる。喉がカラカラになる。胸が痛い。でもこれは恋の痛みじゃない。結人が言うような、そういう気持ちじゃない。違う。絶対に。俺はそういう意味で、英士を好きなんじゃないんだ。本当に。違うんだ。違う。違う。これは違う。そういう意味で英士を好きなのは結人。そして、英士はそれに応える。英士と結人の話。俺には関係のない話。恋の痛みを感じているのは英士と結人。俺は、俺はただ、少し子供っぽいとこがあるから、だから、自分が仲間外れになっちゃった気がして、それでちょっと拗ねてるだけなんだと思う。傷付いてなんかいない。違う。違うんだ。 心の中で、必死で否定した。否定して、言い訳して。でも、こんな言い訳は英士にも結人にも聞こえない。俺は自分自身に言い訳してる。 「早く帰らなきゃ」 言いながら、やんわりと英士の手を払った。俺は英士に背を向けて早歩きで前に進む。 背中越し、英士の声が聞こえた。 「一馬! 俺、こんなことでお前と駄目になりたくない!」 こんなことって? 駄目になるって? こんなこと=英士と結人が好き合って付き合ってること 英士、英士は俺にどうしてほしいのかな。どうしろっていうんだろ。英士と結人とのことを心から受け入れて、祝福して、今までと同じように振る舞えと? そういうこと? 俺だってそうしたいよ。そうしたい。ちゃんとそう思ってるよ。 (もう、ここには居場所が無いんだ。居たたまれないんだ
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君達のいない世界はとても寂しいよ。
胸を焼く焦燥、胸を焦がす情熱、胸を揺する共感、
いとおしむべきもの、にくむべきもの、何も無く、ただ荒涼とした寂しい世界。
でも、そこは、とても穏やかで、僕は、あらゆる苦しみから解放されている。
君達と一緒の場所では、悩みや苦しみも多かったものね。
でも、僕は、君達のいる世界を選ぶだろう。
たとえ、たくさん悩んでたくさん傷付いてしまうとしても。
・終わり・
Nov.20,2000
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