人魚姫


 あるところ(というか海の底)に人魚のお姫様(お姫様というのは自称です)がおりました。彼(…?)は今まで恋などしたことありません。普通にナルシストなので、自分の顔を鏡で見るのとか結構好き。そんな人魚姫にも人生初の(そして最後の、つまり生涯でたった一度の)恋が訪れる。海の底で生活していている人魚姫は、水面から顔を出すことは禁じられているのですが、20歳になったらオッケーです。20歳の誕生日、人魚姫はワクワクしながら上へ上へと泳いでゆき、水面から顔を出します。冬の夕闇。空は桃色のような紫色のような、なんともいえない素晴らしい色合い。海は空の色を映して揺らめいている。あまりの美しさに、人魚姫は目眩を覚え呆然としてしまいます。しばらくして我に返った人魚姫がふと砂浜を見遣ると、波打ち際を暗い顔で歩いている青年が視界に入る。青年の足取りは、あまりにもうつろ。青年のつり上がった目は、深く沈んだような色を湛えている。「あれは、入水する者の目だ」と人魚姫は直感する。幸い直感は外れ、青年はぼんやりとした足付きのまま海を去って行きます。でも人魚姫は、「きっと彼は、昨日も一昨日もずっとここに来ていたのだろう。明日も明後日もここへ来るだろう。今まで入水しなかったからといって、これからもしないとは限らない」なんてことを勝手に思って、「なんとなく心配だから、彼が入水しないよう見張ろう。海に身を沈めたら助けてやろう」と決める。翌日、人魚姫は昨日と同じ時間帯に水面から顔を出します。そしたら青年は、やはりどこか暗い様子で波打ち際を歩いている。「やっぱり」と、人魚姫の心は震える。それから毎日のように、人魚姫は、まるでそれが自分の使命であるかのようにして、砂浜を歩く青年を見張り続けます。自分では「見張っている」つもりでも、人魚姫の瞳は、恋する乙女のそれでした(えー…)
 ある日、人魚姫がいつものように青年を見張っていると、一人の女性が青年に近付いてきました。その女性が青年の母親だと、人魚姫はすぐに気付きました。遠目にも、二人の雰囲気がどことなく似ていることが分かる。血で繋がっているのだと、確かに感じました。青年と母親は、何か話しています。人魚姫には、二人が何を話しているかは分かりません。距離が離れているし、もし声が聞き取れるほど側で聞いていたとしても、人魚には人間の言葉は理解できないのです。でも、二人の深刻げなムードから、楽しい会話をしているわけではないということだけははっきり分かりました。突然、母親が両手で顔を覆って砂浜にしゃがみ込みました。激しく嗚咽しているようです。青年は、恐る恐る母親に手を伸ばそうとするのですが、途中で手を下ろしてしまいます。青年は、母親にどう接すればいいのか分からず、とても困っていて、そして、そんな自分が許せないような、そんな様子でした。しばらくして、母親は静かに立ち上がり、息子に何か一言残してから(人魚姫の予測では、それは謝罪の言葉です)、名残惜しげな様子でふらふらと去って行きました。残された青年は、去り行く母親の後ろ姿を呆然と眺めていました。母親の姿が見えなくなってもずっと。それから、発作のような唐突さで砂浜にしゃがみ込んでしまう。「ああ、彼は、深く傷付いている」と人魚姫は思う。青年の顔は伏せられているから、彼が泣いているのかどうかは、人魚姫には分からない。でも、青年がとても傷付いていることは分かる。傷付いている青年を慰めることのできない自分が、とてもはがゆくて、悲しい。側にいきたい。背中を擦ってあげたい。慰めの言葉をかけてあげたい。彼を分かりたい。人魚姫は、痛切に思いました。彼の側にゆけるのならば、何を引き換えにしても惜しくない気すらしました。人魚姫は、すぐに魔法使いの椎名のところに行きます。魔法使いの椎名は人間になれる薬を作れる、という噂を聞いたことがあったのです。でも、それはとても恐ろしい薬なのだということも。一体どんなふうに恐ろしいのか、人魚姫は知りませんでした。見たこともないような珍しい海草で出来た深くて暗い海の森を潜り抜け、人魚姫はやっとのことで魔法使いの城に辿り着きます。魔法使いの付き人である黒川に連れられ、人魚姫はすんなりと魔法使いの椎名に会うことを許されました。「来ると思ってたよ」と、椎名は何もかもお見通し、といった調子です。人間になりたいのだと人魚姫が伝えると、椎名は思い切り鼻で笑いました。人間に焦がれるなんて全く馬鹿馬鹿しいと魔法使いは言います。馬鹿でもなんでもいいからとにかく彼の側にいきたいのだと告げると、椎名は人魚姫の目を探るように見つめた後、瓶入りの薬を投げて寄越してきました。これは危険な賭けだ、と魔法使いは口元だけで笑いながら言います。薬を飲んで人間になれる確率は二分の一。もし人間になれなければ、命を落とし、その魂は魔法使いのものになるのだそうです。飲めば、人間になるか、死ぬか、そのどちらかだというのです。恐ろしいというのはこういうことだったのか、と人魚姫は思います。
「それでもいいなら、勝手に飲めば?」
 冷たく言い放ちながら、魔法使いの目は、人魚姫が一体どう出るのか興味津々といった様子です。
「飲みます。ありがとうございました」
 あまりにもあっさり。人魚姫は少しも迷いませんでした。そんな自分が、自分でも不思議でした。なぜここまで出来るのか、自分にも分かりませんでした。でも、たとえどんな危険な賭けであったとしても、半分の確率で命を落とすことになろうとも、そんなことはどうでもよく思えたのでした。そんな自分が、恐ろしくもありました。
「死ぬのが怖くないの?」
 魔法使いの言葉に、人魚姫はしばらく考え込み、そして、
「怖いに決まってる。でも、もっと怖いことがあるような気がするんです」
 と。人魚姫は、恐ろしかったのです。海に身を沈め、死んでいく青年を思う。もうとっくに心臓の止まってしまった冷たい青年を海の底で受け止める場面を思い浮かべると、あまりの悲しみに狂ってしまいそうになる。彼を助けるためなら何でも出来る気がする。それが自分の使命のように思う。そのために生まれてきたような気すらする。
「たとえ運よく人間になれたとしても、お前の足は少しでも動かすたびに酷く痛むよ」
「かまいません」
 人間の足よりも人魚の尾のほうがずっと素晴らしいと、人魚姫はずっと思っていました。そして人魚の声や言葉がこの世で一番美しいとも。なのに今は、人間の足を持ち、人間の言葉を口にして、青年の隣りに居る自分を思うと、頭痛のような目眩のような強い恍惚感に襲われる。そして死の恐怖は他人事のように遠のいてゆく。
(はやく、人間に)
 人魚姫の心はそればかり。
 薬を手に入れた人魚姫は、早速水面から上がって砂浜に這い上がり薬を一気に飲み干します。すぐに体中が激しい痛みのような熱のようなものに包まれて、意識が薄れていきました。自分は死ぬかもしれないのだ、と、そのとき初めてリアルに感じられました。でも何故か、後悔はありませんでした。
 人魚姫が目覚めたのは、狭いアパートの一室でした。とても天国だとも地獄だとも思えなかったので、自分は生きているのだと人魚姫は思います。
「あ、目が覚めた。大丈夫?」
 人魚姫の目の前には、焦がれてやまない青年がいました。青年の目は、砂浜を歩いているときのような暗いものではなく、凛々しく清潔な輝きを持っています。けれども瞳の奥には、寂しさを秘めているようでした。青年が、何を言っているのか分かる。人魚姫は人間の言葉を手に入れたのです。自分は生きているのだと思った人魚姫ですが、途端に、ほんとはもう自分は死んでいて、ここは天国なのではないのかと思います。
「喉渇いてない? なんか飲む? ちょっと水持ってくるな」
 と、青年が背中を向けると、人魚姫は反射的に体を起こそうとするのですが、途端に足に激痛が走ります。人魚姫は低く呻いて、布団に顔を突っ伏しました。
「おい! 大丈夫かよ! どこか痛いのか?」
 青年は慌てて人魚姫の隣りに腰を下ろします。
(…人間の足が…)
 燃えるような痛みを足に感じながら、人魚姫の目尻には薄っすらと涙が浮かびます。涙は、痛みのせいだけではありませんでした。歓びの涙でもあったのです。激しい痛みではありましたが、動かさなければ痛まなかったし、そのうち慣れるだろうとも思いました。本当は、慣れるはずなどないのですが、青年の心配げな声を聞いていると、痛みなどどうでもよくなってくるのでした。砂浜で倒れている人魚姫を見つけた青年は、どうしようか迷った末、家に連れ帰って布団に寝かせました。人魚姫は、それから三日三晩眠り続けていて、本当に心配だったと青年は言います。
「いいかげん、医者に診てもらわないとなあって思ってたんだけど、でも、目覚める気がしてたんだよ、なんとなく。そしたらやっと起きた。よかったよ、ほんとに。しばらくここに居てもいいよ」
 青年の口調はぶっきらぼうでしたが、なんて優しい言葉でしょう。人魚姫は感激しつつも、「なんて無用心な人なんだろう。見ず知らずの者にこんなに親切にして。しかも何も訊かないし。俺が悪人だったらどうするんだろう」と不安になりました。そして、「やっぱり彼には俺がついていてあげないとなあ」と思って勝手に納得しました。
「あ、そういやお前、名前は?」
「……」
「いや、言いたくないなら、いいんだけど」
「郭英士」
(ああ、今自分は、彼と話しているのだ)
 改めて感じて、感動で人魚姫郭英士の心は震えました。
「かくえいし…」
(俺の名前を口にしてる)
 やっぱりここは天国なのではないかと思ってしまいます。
「君の名前は?」
「俺は、真田一馬」
 さなだ かずま
 心の中で、ゆっくりと、この上なく丁寧に大切に反芻する。ここが天国だろうが現実だろうが、もうなんでもいいと英士は思いました。

 というわけで、英士は一馬の言葉にあっさり甘えて家に居させてもらうことにします。英士は、「いきなりラブラブ同棲生活に突入とはなんと都合の良い展開だろう。やはり日ごろの行いが良いせいだな」などと勝手なことを思っています。当然ラブラブ同棲生活というのは英士の妄想の中だけの話なので、実際の生活はとってもあっさりしたものです。一馬はバイトバイトで忙しく、朝は早くて夜は遅く、休みの日はほとんど寝てるので、二人は一緒に住んでいても、会話どころか顔を合わすことも少ないのでした。英士はちょっと寂しかったりもするのですが、一緒に暮らせるだけでも充分幸せ(ちなみに一馬のほうは、英士と一緒に暮らしてるだなんてちっとも思ってません。しばらくの間だけ居候させてあげてる、程度の気持ちです)で、一馬の役に立ちたいので、家事とかやってます。不慣れなので失敗だらけですが、一生懸命です。気分は「ちょっとおっちょこちょいだけど旦那様に尽くす可愛い新妻」気分です。いい気なものです。ある日の夕方、珍しく一馬が早く帰ってきて、英士は大喜び。微妙な味の手料理を一馬に振る舞います。一馬は「微妙な味だなあ」と思いつつも、文句も言わずに全部食べます(いつものこと)。ふと窓の外を見ると、雪が降っています。「生まれて初めて見た」と英士が言うと、一馬はちょっとびっくりしたような目をした後、「そう」とだけ返します。
「綺麗だね、本当に」
「うん」
「窓開けて見てもいい?」
「やだよ、寒い」
「じゃあやめるよ」
「うん、やめろ」
 しばらくの間があって、一馬は黙って窓を開けます。思わず「寒い」と呟いてしまった英士に、一馬はむっとして「お前が窓開けてもいいかって言うから」と抗議します。
 開いた窓から冬の冷たい風が入り込んできて、ひどく寒い。
「一馬は優しいね」
「…面と向かってそういうことを言うなよ…。しかも真顔で…」
「あ、顔が赤い」
「それは寒いからだ!」(乱暴に窓を閉める)
 窓を閉めても、部屋の空気はまだひんやりとしています。
「一馬は何も訊かないんだね」
 英士の言葉に、一馬は少しの間黙り、その後、独り言みたいな小声で、英士に話すというよりもむしろ自分に言い聞かせるように、「誰にだって、言いたくないことはあるしな…」と。英士は、一馬の「言いたくないこと」を知りたいと思う。彼の傷口を見たい。分かりたい。彼のために何かしたい。
 その夜、英士がふと目覚めると、まだ雪の降っている気配がします。そっと起き上がり、カーテンを少し開けて窓の外を見ると、やはり雪が。ベッドで眠っている一馬の眉間には、皺が寄っています。悪い夢でも見ているのでしょうか。
(悪夢よ、去れ)
 英士は祈りを込めて、一馬の額にそっと手を置きます。すると一馬は魔法が解けたように目を覚ましました。
「ごめんね。起こして」(手をぱっと放す)
「いや…」
「怖い夢でも見てた?」
「さあ、覚えてない。…うなされてた?」
「そうじゃないけど。苦しそうな顔してたから」
「そっか」
「うん」
「…手、冷たくて気持ちよかった…」(目を閉じる)
 英士は再び一馬の額に手を置きます。一馬は一瞬ビクリとして目を開くんだけど、すぐにまた目を閉じて深呼吸を一つします。
「大丈夫?」
「うん」
「眠れそう?」
「うん、眠れそう」
「よかった」
「うん、ありがとう」
 ありがとう、と一馬に言われて、英士はとても満たされた気分になります。すごくすごく満たされて、胸がいっぱいになる。もっと役に立ちたいと願います。一馬が眠りに落ちたのを確認してから、英士は外に出ます。雪はもう止んでいました。薄っすらと雪の積もった道を歩き、ふわふわとした気持ちで(一馬にお礼を言われた余韻にまだ浸っているのです)海へと向かいます。なんとなく眠れなかったので、海でも見たら心が落ち着くだろうと思ったからでした。一歩進むごとに足は痛むのですが、痛みは雪に吸い取られていくようでした。

「ヨンサ!」
 海に着くと、水面から見覚えのある顔がいきなり出てきて、英士は大いにびっくりします。
「…潤慶、久しぶり。っていうほど久しぶりでもないけど。どうしたの?」
 いとこの潤慶は、突然いなくなってしまった英士をずっと心配していたのでした。
「『どうしたの?』だって? 冗談じゃない! それはこっちの台詞だよ!」
 そう言われてみればそうだ、と英士は思います。
「どれだけ心配したと思ってるの。僕だけじゃないよ。みんな心配してる。人間に魂を奪われて故郷を捨てたんだって、ヨンサは裏切り者だって、悪く言ってる人もいるよ」
 故郷を捨てる、とか、裏切り、という表現に、英士は動揺します。
「そんな…」
「ヨンサ、その人間がそんなに大事なの?」
「俺は、ただ、あの人の役に立ちたい。それだけだよ」
 潤慶は、少し黙って、そして静かにため息を吐き、
「僕はただヨンサのことが心配なだけ」
「潤慶…」
「ヨンサの恋は、破れるよ」
「言いきるね」
「言いきるよ。恋が破れて、ヨンサは深く傷付いて、もう立ち直れないかもしれない」
「……」
「まあこうなったら気の済むまで好きなようにすればいいけど、…って言われなくてもするだろうけど。立ち直れないくらい傷付いても大丈夫だよ。ヨンサの戻る場所はちゃんとあるからね。また戻って来ればいいよ」

(戻って来ればいいよ、って、そんな。だって俺はもう、海には戻れないのに)

 英士は自分の足元を黙って見つめました。

 

 

2003年11月30日・12月10日の日記より。日記で連載するつもりが二回で挫折て。

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