一人、また一人と人が降りていく。どんどん人が少なくなっていく。そのうち車両には俺と一馬、二人だけになった。嬉しいような苦しいような複雑な気持ちになる。二人だけの時間が、胸を押し潰すような重みを持っている。この重過ぎる時間を、車窓から投げ捨ててしまいたい。隣に座っている一馬は、うつらうつらしていた。そのことが救いのように感じられた。でもとても残念にも思う。夢と現実の間をさまよう一馬を、息を詰めて観察していた。静かな寝息を立てて眠っているかと思うと、はっとしたように目を開けて頭を左右に振って意識を覚醒させようとする。なんとか起きたままでいようとするものの、襲いくる眠気に負けて、瞼がゆっくり閉じられていく。こっくりこっくりと頭が揺れる。でもまたすぐに目を覚ます。その繰り返し。そんな一馬の様子が、微笑ましくてたまらなくて、胸の中が熱くなって、苦しかった。でも、そんなふうに感じる自分が恥ずかしくもあり、そんなふうに感じさせる一馬が憎らしかった。
 眠いんなら寝ればいいじゃない。駅に着いたら、ちゃんと起こしてあげるから。
 静かな空気を壊さないように、できるだけ声を抑えて言うと、
 眠くなんか、ない。
 明らかに強がりとしか思えないような答えが返ってきた。あまりにも予想通りの返答だったものだから、思わず苦笑してしまう。
 眠いんでしょう。さっきも居眠りしてたよ。
 してねえよ。
 してたよ。
 してねえって。
 それなら別に、いいんだけど。
 一馬はそこで何か言い返そうと、口を開きかけて、やめる。ひどく不機嫌そうな顔をして、腰を浮かせ、少しだけ俺から離れて座った。どうして彼は、こんなふうなのだろう。呆れてしまう。小さな子どものようだ。一馬がこんなふうだから、俺は一馬から離れられないのだと思う。
 一馬。
 自分でも気持ちが悪くなるような猫撫で声で、彼の名を呼んだ。一馬はちらりと俺に顔を向け、さっと目を逸らす。おいで、と手招きすると、一馬は俺に目を遣るものの、やはりまたすぐに顔を背ける。自分の膝を手で軽く叩いて、膝枕してあげるから、と言うと、一馬は唖然とした様子で俺の顔と俺の膝を見比べた。
 気持ちの悪い冗談を言うなよ。
 そう言って、一馬は眉を顰めた。
 気持ち悪いなんて、酷い。
 笑いながら言い返すと、
 お前のキモイ冗談ですっかり目が覚めた。
 一馬も少しだけ笑っていた。
 おいで、と、もう一度手招きすると、一馬はシートから腰を浮かせないまま、ずるずるとこちらに寄ってきて、俺の膝に頭を乗せた。膝に掛かる一馬の重みと体温に一瞬気が遠くなった。黒く硬い髪の毛をゆっくり撫でると、ヤメロ、と一馬が言った。そんなの口だけで、本当は嫌じゃないくせに。腕や背中も擦ってやると、一馬はくすぐったそうに身を捩る。飼い猫みたいだ。
 英士って、おかあさんみたい。
 膝の上の大きな猫が、甘えたような声で言った。喜びと悔しさが同時に同じ分量だけ胸に込み上げ、複雑な気分に任せて一馬の耳を引っ張った。
 痛いよバカ。
 俺の手を払い除け、耳を押さえて、一馬は俺の膝に顔を埋めた。耳を塞いでいる手をまじまじと見つめてみた。そういえば一馬の爪は、いつもきれいに切り揃えられている。爪の白い部分が無い。白いとこが残ってると気持ち悪いんだ、そう言ったときの、一馬の妙に神経質そうな目つきを思い出す。息が詰まるほどに、清潔な指先。どうしてこんな小さなことに、今更のように胸を締め付けられなければならないのか。彼の指を、口の中に含んでみたいと思った。そう思った次の瞬間に深く後悔した。
 すっかり目が覚めた、なんて言ってたくせに、一馬はいつのまにか、人の膝に頭を預けたまま眠り込んでいた。

 一馬、起きて、もうすぐ着くよ。
 一馬の降りる駅が近付いてきたので、肩を揺さぶって起こす。うう、と唸りながら、一馬は俺の膝から頭を上げてゆっくり体を起こし、口に手を当てて欠伸をした。
 膝、大丈夫?
 照れているのか、一馬は俺の目を見ないようにしながら訊いてきた。平気だよ、と答えると、ならいいけど、と言って、一馬はぎこちない微笑みを浮かべる。電車が止まる。じゃあな、と一馬が腰を上げたので、見送るよ、と言って俺も一緒に立ち上がった。離れがたくて悲しかった。じゃあな、と、もう一度一馬は別れの言葉を口にして、電車を降りる。ああ、置いて行かれてしまうんだ。一馬の後ろ姿に泣きたくなった。次の瞬間、一馬が振り返ったかと思うと、腕を掴まれ、ものすごい力で電車の外に引きずり出された。背後で電車のドアが閉まる音がした。骨が軋むほどに強く抱き締められる。急な展開に頭がついていかず、ただただ混乱した。しばらくして、一馬はぱっと体を離し、窺うように俺の顔を見た。一体どういうつもりだ、と言おうとして口を開くと、
 ごめんなさい。
 一馬は小さな声で謝って、俯いてしまった。
 ごめん、怒ってるだろ。
 一馬は俯いたままだった。
 いいよ、いいんだよ一馬、ほんとに、いいんだ。だって、俺は、もう少し長い間、お前と一緒にいたいと思っていたんだから。
 必死になって言っている自分が滑稽だった。
 一馬は顔を上げて、ほっとしたように笑った。一馬の様子に、俺の方こそほっとした。もしかして俺は、一馬に振り回されているんじゃないだろうか。
 お腹空いた、と一馬が言った。
 お腹空いた、なあ英士、お腹空いたよ。
 言いながら、一馬は俺の腕を掴んで引っ張った。
 一馬、俺は、お前のお母さんじゃないよ。
 目を合わせながら言ってやると、
 そんなこと、分かってるよ。
 一馬は急に不機嫌になり、俺から顔を逸らした。
 分かってないよ、お前は全然、分かってないじゃないか。言い返そうと思ったけど、やめておいた。

Feb.23,2002



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