★ユメ子ちゃんの夏休み★



 明日からは『許された8月』が始まる。[7月31日]

 おじいちゃんが病気で入院することになって、ママはおじいちゃんに付き添うためにしばらく実家に帰ることになった。「ユメちゃんの学校が始まる頃にはきっと帰って来れると思う」とママは言った。つまり、ママは8月いっぱいは不在なわけだ。家にはパパと私、二人きりになる。
「パパと私、ふたりきり」
 その言葉の響きはあまりにも甘美で、私の心をどうしようもないほどに昂揚させた。気持ちが昂ぶり過ぎて吐き気がするほど。
 私は、決してママを嫌いなわけじゃない。むしろ、ママのことは好きなほう。私はママを尊敬しているし、美人で仕事が出来てしっかり者のママは素晴らしい女性だ。けれど、私はママに嫉妬をしている。だって私、パパのことが好きなんだもん。ママには申し訳ないけれど、「ママさえいなけりゃ」ってたまに思ってしまうことがある。ママがいなくなれば、パパは私だけのものになるでしょ。私はパパを独り占めしたいのよ。だって私、パパのことが大好きなんだもん。
 パパ、今日から1ヶ月間、二人きりね。夢のようね。毎日のように堂々と同じベッドで眠ることが出来るのね。夢のようね。もしかして夢? 夢じゃないよね。パパ、パパ、パパ。これは夢じゃない。夢のような現実。許された8月が始まる。
「おじいちゃん、入院してくれてありがとう」こんなこと思うのは酷いって分かってる。でも感謝せずにはいられない。入院が長引いたりしたら、私ちゃんと、お見舞いに行くから。だから。ごめんね。私を許してね。ううん、私を許さないで。
「ママ、いってらっしゃい」
 8月1日午後4時半、私は玄関先で笑顔でママを見送った。
「いってきます」
 とママも笑顔で答えたよ。
 ママ、いってらっしゃい。気をつけてね。いってらっしゃい。もう永遠に戻って来なくてもいいよ。なんてね。うそうそ。また9月に会いましょう。
 それまでさようなら。
 ……私のことを許さないでね。(それは誰に投げかけている言葉? おじいちゃんに? ママに? パパに? 私自身に?)
 そうして、許された8月が幕を開ける。幕を開ける、なんて言い方をしたのは、幕を閉じる時が存在するから。終わりある8月。いつか許されない時がくる。
『激しい夏の暑さはやがて訪れるであろう冬の沈黙を予感させる。夏は悲しみを連れてやってくる』
 何かの本で読んだフレーズを思い出した。そう、夏は悲しみを連れて。胸が痛いね。でもパパ、パパがいるから大丈夫。パパさえいれば。ね。そうでしょう?
 ………(誰か答えてよ)

…誰か答えてよ!《悲鳴のような言葉》
誰か答えて!《悲鳴》
だれかこたえて《言葉》
悲鳴のような言葉と悲鳴と言葉の洪水。

−−−−−−

後は沈黙。沈黙の嵐。



……
 甘い、苦い、熱い、溶けるように醜い、滴るようにいとおしい、8月の始まり。
 パパと私は同じ布団で眠るのです。
「ユメ子ちゃん、お前は本当にかわいいね」
 パパの大きな手が、私の小さな裸の胸をそっと包むのです。私は、心臓を直に触れられたような気がして、夢のような気持ちになるのです。熱帯夜。
「こないだユメ子ちゃんに似合いそうなかわいいピンク色の靴を見付けたよ。今度買ってきてあげよう」
 私の胸に唇を寄せながらパパが言うのです。そしてパパは私を抱きしめました。今夜は熱帯夜です。
 パパの胸は愛の匂いがした。新しい靴なんかいらないから、明日も私と寝てちょうだい。
 パパに明け暮れる日々。朝も昼も一人でパパのことを考えてうっとりして、そして夕方パパが帰って来たら一緒にご飯を食べて一緒にお風呂に入って一緒に本を読んで一緒に寝るの! 夢みたいでしょ。薔薇色でしょ。人生ってすてきでしょ。ユメ子、生きててよかった☆

 ある夜、私はベッドの中でパパに言った。
「パパ、私と結婚して」
 一瞬パパは唖然とし、その後、呆れたような困ったような表情になった。パパはママと結婚しているからユメ子ちゃんとは結婚できないんだよ、とパパが言う。じゃあ、ママと別れて私と結婚して。それはできないよ。どうして? どうしても。私、パパの子供を産みたいの。それはだめだよ。どうして? どうしても。私を好きじゃないの? 好きだよ、ユメ子ちゃん。私とママ、どっちが好き? パパは困った顔をした。パパの困った顔は私をがっかりさせる。
 なだめるように、パパは私の髪を梳く。
 ユメ子ちゃんはかわいいね、
 機械みたいな言い方でパパは言った。
 パパは、ユメ子ちゃんのこと、思い通りになるお人形さんとでも思っているのでしょう? でも平気。ユメ子ちゃんはパパのお人形さんでいいのです。大事にしてね、大事にしてね。
 私はみじめだ。好きな人に、自分の権利を主張することもできない。
(私の権利って?)(権利がどうとか言ってる私はなんて傲慢なんでしょう!)
 私は無力だ。(だってユメ子ちゃんはね、お人形さんなのだから、仕方ないの)
 私はみじめだ。(ループする思考)
 せめて、一滴でも涙を流すことができたらいいのに。そうしたら、私の痛みに信憑性が出るというのに! (ただの自己満足)

 翌朝、目が覚めたのは9時過ぎだった。勿論パパは会社に行ってしまった後で、パパと朝食を共に出来なかったこと、パパにいってらっしゃいを言えなかったことが悔やまれた。いつもはパパと同じように6時には起きているのに。
 ふと私は、なんとなく自分がひどく死にたい気持ちであることに気付いた。そして、その日の午前中、どうやって死んでしまおうか、そればかり考えていた。死にたいのは、寝坊してしまったからではなかった。今日、目が覚めたその瞬間から、私はなんとなく死にたかったのです。それはもう、パパがどうとかそういうこととは無関係に。
 私、なんとなく死にたい。とても、なんとなく死にたいのよ。それはパパのせいでもママのせいでも夏のせいでも私のせいですらなく。朝起きてなんとなくだけどとてもグレープフルーツジュースが飲みたいときがあって、そういうのと同じような感覚で、朝起きてなんとなくだけどとても死にたくなった。私の中では、グレープフルーツジュースと死は同じくらいの重量だ。曖昧な重さ。でも切実な重さ。私はなんとなくだけどとても死んでしまいたいのです。
 真昼間だった。アルコールで頭痛薬一箱分を胃に流し込んで、風呂に浸かった。しばらくすると、じわじわと襲ってきて一気に膨れ上がる猛烈な吐き気。胃が、食道が、喉が、口内が、重い熱いひどい。…目眩、目眩、目眩、目眩。幻が見える。すごい。血管が一気に拡張してるんだか収縮してるんだか、とにかくすごい、血管、血が流れない、血が疾走する、心臓、脈動、すごい、地獄のような、天国のような、吐き気、目眩、狂ったリズムで内臓が煮えたり冷えたり、私の体が、私の体ではない感じ、脳も狂ったリズムで煮えたり冷えたり、私の脳が、私の脳ではない感じ、頭痛頭痛、頭が、グワングワン、と、鳴いている、指先、ひどく痺れてる、心身ともにひどい痺れ、ここ、どこ、あ、ここ、風呂場か、そうか、思考ガタガタ、ここ、どこ、視界チカチカ、赤い白い黒い虹色い、瞼チカチカ、私、目を開けてるのか開けてないのか分からない、眠い、眠くない、ひどい、ひどい気持ち、痛い、痛くない、気持ち悪い、最悪、最悪過ぎて最高、ひどい、ひどい、死にそう、でもこれじゃ死ねないってことは過去に身をもって実証済み、でも死にそう、死ねそう、どんどん沈んでいく、どんどん、そう、この感じ、この感じ、沈んでく、…沈んでいく………

どうかうまく底の底までしずめますように

…………………………………………………………………………………………………

…フェードアウト



 おうちの鍵が無いの。おうちの鍵が無いの。おうちの鍵を無くしちゃったの。おうちの鍵を探してるの。
 小学校低学年くらいの女の子が、家の鍵を探して砂浜をズルズルと歩いている。波の音が絶えず聞こえる。海にも砂浜にも女の子以外には誰もいない。おうちの鍵、おうちの鍵、おうちの鍵…、女の子は空ろな瞳でうわ言のように『おうちのかぎ』と繰り返している。どれくらい女の子が砂浜を歩き続けていただろうか。30分程かもしれないし、1時間程かもしれないし、1日中かもしれない。もしかしたら1年間も、2年間も歩き続けていたかもしれない。ふと、足元の砂に埋まっていてキラキラと太陽の光を反射しているものが、女の子の目に止まる。
「おうちの鍵!」
 女の子は大きな声で叫んで、腰を屈め、その物体を手に取る。それは確かに、鍵だった。女の子は、大事そうに鍵を握り締める。その途端、そう、まさに女の子が鍵を握り締めたその瞬間に、鍵は音も無く砂の粒達に姿を変え、女の子の指の間からサラサラと零れ落ちていく。女の子がそっと手を開くと、掌にはいくらかの砂の粒がくっついているだけだった。
「―――――!!!」
 女の子の声にならない悲鳴が、海辺の潮臭い大気を振動させる。

―――――!!!《言葉にならない悲鳴》
『―――――』《言葉(?)》
!!!《悲鳴》
言葉にならない悲鳴と言葉(?)と悲鳴の洪水。

−−−−−−

後は波の音。波の音の嵐。海の匂い。砂浜の匂い。

……
 気が付くとベッドの上だった。見なれた天井。
「おはよう」
 パパが私の頬を撫でた。
 おはよう、と返そうとしたけど、死に損ないの私は声を出すのも辛い状態で、挨拶を返すことが出来なかった。
 パパ、最悪な気分よ。最悪。
 意識を失っていた間、何か、ずっと、ずっしりと重苦しい夢を見てたような気がする。とても悪い夢。でも、現実の方がずっと悪い夢みたいな感じ。気分が悪い。頭がぼんやりして、感覚がひどく鈍っている。夢と現実、区別がつかない。どっちが夢でどっちが現実なんだろ。夢と現実の区別ってどうやってつけるんだっけ? 夢と現実の違いって何だっけ?
 気分が悪い…。
 気のせいか軽い耳鳴りがする。(ささやかな悪戯のように鼓膜を突つく波の音)
 気分が悪い。
 それから一週間程、私はずっと体調がすぐれなくて、眠っているんだか起きているんだか生きているんだか死んでいるんだか分からないような調子で、布団の中でぐったりとしていた。パパはひどく私を心配して、仕事をしばらく休み、私のためにおかゆを作ってくれたり、私の体を拭いてくれたり、かいがいしく私の面倒を見てくれた。このままずっと病気のまんまでもいいかな、なんて私は思った。
『このままずっと病気のままで』
 そういえば、小学校の頃、そんなことを思った記憶があるな。私は元来体は丈夫な方だったけど、珍しくひどい風邪を患って一週間ほど学校を休んだことがあったっけ。普段は素っ気無いママが、その時はすごく優しかった。私は、ずっと風邪が治らなければいいと思い、風邪薬をそっと捨てたり、布団から出て窓を開けて体を冷やしたり、風邪を長引かせようと一生懸命になってた。病気でいれば、ママは優しい。ずっと病気だったなら、ずっとママに甘えていいんだ。
 私の努力が功を奏してか、風邪はなかなか治らず、熱も毎晩のように出た。最初のうちは看病に喜びを感じていたふうなママも、私の風邪が長引くにつれて、うんざりした様子になった。これ以上仕事を休めないから、と言って、私が風邪で伏せってから3日目に、ママは私を家に残して会社に行った。「ユメちゃん、一人で大丈夫よね?」家を出る時ママが言った。私は「はい」と生真面目に答えた。
『ユメちゃんは一人で大丈夫よね』とか『ユメちゃんはちゃんと出来るでしょ』とか、そういうのはママの口癖だった。私は決まって『はい』と答える。ママにダメな子だと思われたくないから。
 でも、ほんとはね、ユメちゃんはとってもダメな子なの。ユメちゃん、一人で大丈夫じゃないよ。ユメちゃん、ちゃんと出来ないよ。 なんでママ、勝手に決めるの。

 さらに数日が過ぎ、大分体調は良くなってきた。
 突然パパが、
「明日、海に行こうか」
 なんてことを言い出す。なんとか私を元気付けよう思って、そういう提案をしてるんだろう。
 私は、海、好き。けど、好きなのと同じくらい嫌い。海に行くと、決まって胸が痛くなる。だから好き。そして嫌い。
 パパが買ってくれたピンク色の靴を履いて、私の胸を痛くする海へ行こう。
 パパの車で40分。
 目の前に広がる砂浜、海。濃密な潮の匂い。
 早朝のためか、不思議なくらいに人が少なかった。
 海に来る度に思い出される、10年前の夏のある日の記憶。
 あの頃私は小学1年生で、夏休みのある日に、パパとママと3人で連れ立ってこの海に来た。

 私は海に着いてすぐにワンピースを脱ぐ。下には既に水着を着ていた。パパ早く、と急かす私。日光に弱いママは、パラソルの下で微笑んでいる。気を付けるのよ、とママが優しく言った。「はーい!」私は元気良く返事する。パパは笑顔でママに頷く。

 あの時の私達は、圧倒的に幸せだった。絶対的に幸せだった。幸せなんていうのはそもそも相対的で主観的で個人的なものだけど、でもあの時の私達家族は、絶対的に、辞書的な意味で、潔く整った形を呈して、完全に、幸せだった。眩しいくらいの幸福。思い出はいつだってゆらめく夢の国に流れている音楽のように甘美で感傷的だ。記憶は哀しい淡い色合い薔薇の匂い。安っぽいドラマのような安っぽさ。しつこく繰り返そう。私達は幸せだった。


 しばらく泳いだ後、私とパパは、岩陰でカニやヤドカリを観察してははしゃいだ。
 ふとした瞬間、パパが私にキスをした。


 遠いあの夏の日、パパは何故私にキスをしたのでしょう。
 あの日のキスで、私は恋を知ったのです。(あの日のキスさえ無かったら、私は恋を知らずに済んだのに…)
 遠いあの夏の日の夜、私とパパは、夜中にパパの車で抱き合ったのでした。そして私は、何を知ったのでしょう?
 とても窮屈な夜だった。とても恐ろしい夜だった。とても素晴らしい夜だった。(あの夜さえ無かったら、私は…)
 いつも、夢中。パパの気を引こうと必死。余裕がないの。いつだって。いつだって精神ギリギリで、パパに縋っているのです。パパがいなくちゃ、ユメ子ちゃん、生きていけない。でもパパは、ユメ子ちゃんがいなくても生きていける。不公平だわ。世の中ってなんて不公平なの。パパなんか死んでしまえばいいのに。嘘。死んでしまえばいいのは私。悪いのは私。いなくなればいいのは私。海に沈んでしまえばいいのは私。
 パパ、覚えてる? あの夏のことを。今もよみがえるあの夏の日。
 あの日聞いた波の音と、今聞いている波の音が重なり合い、微妙な音楽を紡ぎ出す。
「パパ、キスして」
 明日で世界は終りよ・これが私の最後の望みよ・だからお願い・受け入れて・あなたは私の望みを叶えるべきよ・叶えろよ・それがお前の義務なんだよ・言うことを聞け・でないと殺す・でないと死んじゃう・お願い・お願い・お願いよ、そんな感じの、縋り付くような、押し付けるような、気味の悪いほど真摯な眼差しで、呪われたように痛々しい情熱と魂を込めて、パパに言った。
 パパは、曖昧に微笑んでごまかした。
「パパの可愛いユメ子ちゃん、愛しているよ」
 言い訳みたくパパは言った。
 パパ、パパ、愛なんて言葉、冴えないユーモア、いえ、悪い冗談だわ。そんな簡単に口にしないでちょうだい。私と心中できないくせに、私の夫になれないくせに、そんな言葉を吐かないで。嘘吐き、嘘吐き、虫唾が走る。パパ、私は、あなたを見るだけで虫唾が走る。この変態。娘を抱く変態親父。嘘。パパ、私はパパを愛しているのよ。悪い冗談だわ。でもそんな悪い冗談みたいなものが私の真実、私の現実。―――私の全て。
 靴の中に砂が入る。何度除けても、砂が入る。

 結局、その日海で、パパはキスをしてくれなかった。私はひどく、ねだったのだけれど。子供のようにひどく、ねだったのだけれど。パパは曖昧に笑って、悪い冗談みたいな愛の言葉でごまかすばかりだった。
 私は、10年前のあの夏から、少しも成長していないのかもしれない。あの日、私の時間は止まってしまったのかもしれない。
 これが私の真実? 私の現実?
 今も7歳の小さな少女のまま、パパを想ってる。
 パパ、キスして。あの時みたいに。
 でも、だめ。パパは、あれから10歳も年をとっている。だから、あの時みたいに、なんて、無理な話だわ。私だけ、私だけが取り残されている。10年前のあの海に。私だけ。でも。パパ、キスして。パパ、私を海に沈めて。
 パパ、どうしてキスしてくれなかったの?(それは10年前の『パパ、どうしてキスしたの?』と同じだけの重みを持つ疑問文)


……
 8月が、終わろうとしていた。音もなく。予感も、予言もなく。日めくりカレンダーだけが、『今日で8月は終わりだ』、そう告げている。
 私は最後の夜を、やはりパパのベッドで過ごした。
 パパの、愛の匂い。
 私は必死で、パパの匂いを肺に吸い込んだ。必死で。肺が、潰れそうになるくらいに。いっそ潰れろ。
 パパ、パパ、パパ、 パパを呼んだ。喉が潰れそうになるくらい。もういっそ…。
 せり上がって、突き抜けて、なおも貪欲に、上へ、上へ。
 そしてその果てで何を見たの?
 許された8月が終わる。

波の音がまだ頭から離れない。
(それは4日前に行った海の波音? それとも10年前の波音? それとも…、)


 誰より何よりパパに愛されたくて、強欲に求め強引に捧げた心身諸々8月の全て。
 血は枯れて骨は崩れて魂も溶けてそしてその後に何が残ったの?
 もぐり込んで、突き当たって、なおも一途に、下へ、下へ……下へ!
 どうあがいたって何も手に入れることなんか出来ない。そんなこと、本当は、痛いくらいに分かってた。そう、痛いくらいに。8月なんか終わればいい。9月なんか来なくていい。8月でも9月でもない8月と9月の狭間に落ちていきたい。そして全てに終止符を。

どうあがいたって何も手に入らない。(そもそも私は一体何を手に入れたいっていうんだろう?)



……
 9月1日午前7時。ちょうどパパが会社に行くのと入れ替わりで、ママは、8月1日に家を出たときと同じようなさり気なさで家に帰って来た。
 ただいま、と一言だけ言ってするりと家に入り、おかえり、と答える私の横をすっと通り抜けてバスルームに向かうママ。
 ママは、少し痩せたかもしれない。

「朝ごはんにしましょう」
 シャワーを浴びてさっぱりした顔でママが言った。
 私は静かに頷いて、食卓につく。
 開け放した窓から、柔らかい朝の光と匂いが入り込む。
 優しく明るい朝だった。
 目玉焼きを作りながら、ママが鼻歌を歌っている。
 この耳慣れた音楽はなんだろう。
 そうだ、チャイコフスキーだ。「ピアノ協奏曲第1番第1楽章」
「いただきます」
 食パンとトマトたっぷりのサラダと目玉焼きを前に、二人で手を合わせる。
 すがすがしい朝の空気の中で、私とママはめいめい静かに朝食を口にする。
 なんて穏やかな朝の風景。

「ほんとは、私、知ってるのよ。ユメちゃんとパパの間の秘密」


 焼いていない柔らかな白い食パンにブルーベリージャムをたっぷりと塗りたくりながら、突然ママが言った。
 ごく、普通の調子で。本当になんでもないことを言うような調子で言った。そう、ちょうど、「朝ごはんにしましょう」と言ったときのような何気ない口調だった。
『秘密って?』
 なんて問いをわざわざ返すほど私は愚か(というか勇敢?)ではない。
 私は喉がつかえて、口の中のトマトを飲み込むことができなかった。
 ママは、しつこいくらい丁寧に丁寧にパンにジャムを塗る。
 また鼻歌を歌っている。
 やっぱり耳慣れた音楽。
 これはそう、シューベルト。「ます」
 ママの鼻歌の「ます」を聴きながら、私は少しだけ泣いた。
 そのせいで、私の表面は少しだけ潤い、私の内面は少しだけ渇いた。
 涙を流したのは赤ちゃんの時以来だよ。












Aug.20,2000

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