自分で言うのもなんだけれど、
僕は、真面目で、成績も結構良くて、背も高くて、
なんか雑用ばっかやらされる損な役回りな気もするけど部長は部長だし、
それなりに友達も多いし、実は綺麗な彼女がいたりして、

僕の人生は、僕の未来は、
(地味だけど)
明るいはずだった!

のに。




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 月曜、一時間目と二時間目の間の休み時間。そろそろ来るな、と南は思う。何がそろそろ来るのかというと。
「南! 辞書!」
 やっぱり来た。
 南はわざとのろのろと英和辞典を取り出して、教室の出入り口で待ち受けている千石へ向かった。
 あんがと〜、と感謝の言葉を述べながらも、ちっともありがたがってる様子はなく、当然のように千石は南の手から英和辞典を受け取る。
「いいかげん家から持って来たらどうだ?」
 この台詞を言うのは何度目だろう。月曜二時間目、火曜五時間目、金曜二時間目。他のクラスの英語の時間割を把握してしまったのは、千石が英語の授業の度に辞書を借りに来るからだった。
「うん、持って来よう持って来ようとは毎日思ってるんだけどね、忘れちゃうんだよ」
 いつもごめんね、と付け足して、全然ごめんねなんて思ってないような屈託ない表情で千石が笑った。
「次、うち、英語だから、終わったらすぐ返すこと」
「了解」
 ここで千石が軽く左目を閉じてみせたりしたものだから。
(ウ、ウインク…?)
 南は無駄に不吉な気分になってしまった。

 二時間目が終わってしばらくしても、千石は南のクラスに訪れなかった。あの『了解』とウインクはなんだったのだ、と思いつつ、南は不本意ながらも千石のクラスに向かう。こういうことはよくあることだった。よくあることだったがしかし、決して慣れてはいけない、と南は常に自分に言い聞かせていた。千石がいい加減な男であることに慣れてはいけない。わざわざこんなふうに言い聞かせるのは、言い聞かせておかないと慣れてしまいそうになるからであって。と、こういうことを深く考えていると何かこうもやもやとした気持ちになってくるので深く考えないようにしよう。と、また南は自分に言い聞かす。千石のクラスはすぐそこ。近いはずの距離がやけに遠く感じられた。
 教室の窓から中を見渡しても、千石は見当たらない。どこに行ったのだろうと思いながら、近くにいた男子に、千石は? と訊くと、あれ? さっきまではいたような気がするんだけどなあ…、と頼りない返事が返ってくる。どうしたものかと思っていると、南くん、と名前を呼ばれた。千石のクラスの女の子。名前は知っているが、話したことはない。学年で一番可愛いと評判の女の子だった。
「南君が来たら渡してって、千石君から、これを預かってて」
 彼女から渡されたのは貸していた辞書ではなく、折りたたまれた白い紙切れだった。そっと開いて中を見てみる。

『じしょをかえしてほしくば、おくじょうまでこい
 アナタのキヨスミより☆』

(…コメントの言葉が何も浮かばないな…)
 ばかばかしい、と南は思った。こんなことで怒ったり笑ったりするのは、呆れたりすることすら、馬鹿馬鹿しいと思った。心を動かしたくなかった。
(俺よ、いいか、無だ、無、心を無にするのだ)
 自分に言い聞かせてみた。
 休み時間は残りわずか。おそらく屋上に向かっているうちにチャイムは鳴るだろう。辞書なんて別に、他の人に借りればいいし、隣の子に見せてもらってもいい。どうしても今辞書を返してもらわなければならないわけではない。屋上に行かなければならないわけではない。それなのに、足は屋上へと向かっていた。小さく折りたたんでポケットに突っ込んだ紙切れが、自分を嘲笑っているような気がした。屋上に行ったからといって、千石がいるとは限らない。からかわれているのかもしれない。たとえそうであっても、無だ、無だぞ、心は無、だ、と南は心で唱えながら階段を一段一段上がっていく。でもきっと、千石は屋上にいるだろう。やはり何の屈託もないヘラヘラとした表情を浮かべて、屋上にいるんだろう。確信ではなくて、予感。ビジョンが脳裏を掠めた。チャイムが鳴った。
 屋上の扉を開くとき、一瞬だけ手が止まる。
(今、俺の心はすごく無だ…)
 扉を開けると一気に視界が開けた。千石は、南の辞書を枕にして、地べたに仰向けに寝転がっていた。
「ヤッホー、南、見てよ、空が青くて、とってもキレイ」
 空と向かい合った千石は、うっとりと目を細める。
「辞書返せよ」
 南はずかずかと千石に近寄り、千石を上から見下ろしながら言った。なるべく、声に何の感情も込めないようにして。
「辞書は枕にするには固すぎて。ねえ、健ちゃん、ひざまくらしてよ」
 南を見上げながら千石が笑った。人を食ったような笑い方だった。そうだ、千石は、こうやって笑ってた。屋上に続く静かな階段を昇っている途中、頭に浮かんできたビジョンと同じだった。今目の前にある現実と、ついさっきまで脳にあったビジョンが重なる。重なったとき、ビリ、と電気の音がした、気がした。無のはずの心が揺れて、ぶれて、端っこの方が少し焼けた。目尻が少しだけ熱くなった。
 南は無言で強引に、千石の頭に敷かれている辞書を引き抜いた。ゴチン、と千石の頭がコンクリートに打ち付けられた音がした。
「イッタ〜!」
 頭を抱えてうつ伏せになる千石を、南は無表情で見下ろす。
 うつ伏せになったまま、千石は動かなくなった。どれくらいそうしていたのだろう。南はそろそろとしゃがみ込んで、千石の様子を窺がった。その途端、
「スキあり!」
 咄嗟に体を起こした千石の唇が、南の唇を掠めた。
 こうなる予感はしてました。
 分かってたのに避けられなかったのはなんでだ。分かってて、避けなかったのは、…なんでだ…。
 南の手から辞書が滑り落ちた。
 深くは考えたくない、と南は思った。頭が痛かった。頭を打ったのは、千石の方だというのに。千石よりもずっと、頭を打ってないはずの自分の方が頭を痛めているのだと、南は確信していた。

 僕の人生は、僕の未来は、(地味だけど)明るいはずだった。(地味だけど)
 明るいはずだったのだ。なのに、なぜ。どこでなにがどうなってこうなったのか。


「一緒に三時間目サボろうよ。で、太陽の下でセックスしよう! なんてネ〜。ワハハ〜」
 な、なんてことだ。
「…俺は、俺は、教室に戻る…」
 くるりと千石に背を向け、南は屋上の出入り口に向かった。
「あ、南、辞書忘れてるよ?」
 千石に指摘され、南は慌てて大股で戻る。差し出された千石の手から辞書を受け取ろうとするが、ひょいと手を上に逸らされ避けられてしまって、思いきり項垂れた。
「うそ。はい、ごめんね」
 また全然ごめんねなんて思ってない顔で笑いながら、千石は南に改めて辞書を差し出した。それを引っ手繰るように取ってから、厳しい表情と声色を作って南は言った。
「部活、ちゃんと出ろよ?」
「了解、南部長」
 ここでウインク。
(…なんでそんなにウインク上手いわけ?)
 南には永遠に理解できそうになかった。




おしまい(^v-)-☆




Oct.7.2002


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