息,詰まるほど君を想っても,君は素知らぬ振りさ.







(いつかはお前をこの手で握り潰してやる)











beautiful fish


 ノートをとっている途中で、ふと、シャーペンの芯がぽきりと折れる。次の瞬間、安田の胸に訳の分からない悲しみがどっと押し寄せた。なんでもないことが、耐えられなく思える。ちょっとしたきっかけで、胸の奥にある暗い澱みに意識が集まる。予備校の教室は、世界から隔離された病室のように白くて寒い。神経を内面に向かわせれば、教師の声も、ホワイトボードの上を走るペンの、キュ、キュ、という音も、いくつも重なるように聞こえてくるページを捲る音も、シャーペンの音も、全部消える。外の音で生き残ったのは、小さく低いエアコンの音だけ。閉ざされた空間。窓の外は夏。夏休みは始まったばかりだった。

 隣の席に座っている女子生徒に、ねえ、と声を掛けられ、安田ははっと我に返った。
「英語の訳、やってきた?」
 いつのまにか一時間目の数学が終わっていた。15分間の休憩の後は英語だ。「ああ、うん、一応」と答えながら、数学のテキストを仕舞って、英語を机の上に出す。分からないところがあるんだけど、と言う隣の女の子に、僕も全然自信ないんだけど、と返して、テキストと訳を書いたルーズリーフを見せ合った。女の子の声の調子が、どことなく癇に障った。耐えられない、とすら安田には思えた。声の調子にデリカシーが感じられない、笑い方が下品だ、と。でも彼女に限らず大概の人の笑い方は卑しく感じられる、と安田は思う。ただし、一人だけ例外がいた。彼は、彼だけは、清らかに笑う。花が風に揺れるみたく微笑む。安田は、進藤のことを思った。

 やっと、という感じで予備校の一日が終わり、安田はほっと息を吐いた。安堵も束の間、明日からもずっとこういう生活なのだと思うと、一気に心が重くなる。けれど、自分の選択した道だ、自分には目標がある、そのために諦めたものがある、と自身に言い聞かせた。
 予備校の帰り道、安田は偶然立松を見かけた。立松の姿を認めた途端、安田は反射的に踵を返してしまいそうになるが、待てよ、という言葉が飛んで来て、安田の足は竦んだ。
「逃げることはないんじゃない? 取って食われるわけじゃあるまいし」
 からかう調子で言いながら、立松が安田に近寄って来る。安田は、覚悟を決めてゆっくりと振り返った。言い訳の一つでも言うべきかと、安田は立松の様子を窺うが、立松の笑顔の裏に小さな悪意―それは安田の被害妄想でしかないのかもしれないが―を感じ、どんな言い訳も無駄どころか余計己の立場を危うくするものに思え、安田は何も言わずに曖昧な笑顔を無理矢理浮かべるだけに止めた。
「予備校帰り?」
 立松の言葉に、うん、と小さく返事し、安田は立松の髪が濡れていることに気付いた。
「そっちは、シンクロの練習してたの?」
 訊きたくなどなかった。けれど、会話の流れ上、こちらも訊くのが自然だと思って、安田は仕方なく訊いたのだった。立松は、そんな安田の心中を察しているかのように(安田にはそう思えた)軽く笑って、まあね、と返す。
「勉強、楽しい?」
 立松から投げかけられた問いが、安田の胸に突き刺さる。立松の成績が学年で一番だったことを思い出し、安田は吐き気すら覚えた。
「…普通だよ。シンクロは、楽しい?」
 はっきりとした不快感を胃に感じながら、安田はまた、訊きたくないことを訊いた。心の奥底にある繊細な部分がズタズタになってく気がする、と安田は思った。
「楽しいよ」
「そう」
「他に訊きたいことは?」
「何も」
「進藤のことは訊かないの?」
 その人の名前を出されて、安田の心は震えた。次第に鼓動が高まり、息苦しくなってくる。追い討ちをかけるように、気になるんでしょ、と立松が言った。あまりに気持ちが乱れると、頭が真っ白になって、心はぐちゃぐちゃなはずなのに、気持ち悪いくらい落ち着いて感じられることがある。口を開いても喉が渇いて言葉が出ないだろうと思っていたのに、安田は自分でも不思議なくらいあっさり言葉を発することが出来た。
「進藤のことは応援してる。でも、もう、僕と進藤は住んでる世界が違うんだ」
 安田の言葉に、ハッ、と立松が短く笑った。立松は口元だけで薄っすらと微笑んでいる。馬鹿にされた、と安田は思った。これは酷い侮辱だ、と。心が不穏にざわめく。
「君が、転校して来なければよかった」
 それが自分の本意なのかどうか、安田には分からなかった。けれど酷い言葉は口から滑り落ちた。立松は一瞬目を瞠ったが、次の瞬間には顔に笑いを浮かべていた。そういう台詞を聞きたかったんだよ、というような目を立松がしていたものだから、安田は心底ぞっとした。
「ひどいこと言うなあ」
 少しも“ひどいこと”などと思っていないような、傷付いていない目で立松が言った。気持ちが悪い、と安田は思った。立松の目は、何事にも傷付かない目に見えた。自分は今、傷付いた目をしているのだろう。ひどいことを言ったのは、自分の方なのに。安田は立松から顔を隠すように俯いた。
「勉強がんばって」
 じゃあね、と言って、立松が安田の横を通り過ぎた。安田はしばらくその場を動くことが出来なかった。


「昨日さ、練習の帰り、ちょっと寄り道してたんだけど、安田に会ったんだよね、偶然。向こうは予備校の帰りだったみたい」
 立松は本当に唐突に切り出した。さっきまでシンクロの振り付けの話をしていたというのに。進藤の表情は一瞬にして強張ったが、動揺を隠そうと、そうなんだ、と努めて平静を装いながら返した。
「シンクロ楽しいかって訊かれたから、そりゃもうすげー楽しーやっぱ本当にやりたいことやるっていうのは素晴らしいことだなーって答えといた」
 立松の言葉から、どこか性質の悪い揶揄の調子を感じ、進藤は嫌な予感を覚えてしまう。
「お前、安田に何か余計なこと言ってないだろうな?」
「余計なことって? 『うそつき』とか『うらぎりもの』とかそーゆー類?」
 進藤の中の漠然とした嫌な予感がはっきりとした不安に形を変える。
「言ったのか!?」
 慌てる進藤を宥めつつ、言ってませんって、と立松は笑った。むしろひどいこと言われたのはこっちなんですけど、と、やはり笑いながら言った立松に、進藤は、えっ、と驚く。
「転校して来なけりゃよかったのに、みたいなこと言われたー」
 ワハハ、と立松は笑う。進藤は一瞬呆然としたが、しばらくして、呆れたように首を左右に振り、安田がそんなこと言うはずない、と返した。
 あっそう俺のこと信じてないんだね、とか、一緒にシンクロやってる俺より受験を選んだ安田を取るんだ〜、とか、進藤を困らせたり傷付けたりするような言葉が、立松の頭にいくつも思い浮かんだ。どれも無意味だし、本意ではなかった。
「安田、あんまり元気なかったよ。きっと、ほんとは、まだ諦めきれてないんだよ。まだ、シンクロやりたいって思ってる。だったら、やればいい。確かに、物事には優先順位があると思うよ。シンクロやるとなったら、勉強する時間は必然的に減る。でも全然出来なくなるわけでも、勉強やっちゃいけなくなるわけでもないじゃない。シンクロのために受験を捨てなくても、受験のためにシンクロを捨てなくてもいい。どっちもがんばればいい。手に入れればいい。何かを捨てなきゃ、別の何かを手に入れられないってわけじゃない」
 進藤は真剣な表情で立松の話を聞き、しばらく黙り込んだ後、困ったように少しだけ笑って、

「お前には分かんないだろうなあ」

 と言った。

 
進藤の言葉に、立松の目の奥の一点が、じんと痛んだ。そこは、誰にも触れられない、自分にも触れることの出来ない、深い一点だった。進藤にしか、届かない場所だ。

 あっ、ちがうからな。へんないみじゃなくて! わるいいみでいったんじゃなくて、ほめてるんだからな。ほら、おまえはさ、やるってきめたら、やるだろ。やるってきめたら、やれるじゃん。めちゃめちゃこうどうりょくあって、まえむきだし。でも、うん、みんながおまえみたいにできるわけじゃなくて、ほら、いろんなにんげんがいるから。
 進藤の言葉が、遠くに聞こえていた。下手な言い訳だ、と冷たく立松は思った。胸の中が気持ち悪いくらいにひんやりしている。
 目を伏せ、黙り込んでしまった立松に、進藤は大いに困惑した。自分の発した言葉のせいで立松が不愉快になったのだと思うと、胸が詰まる。悪気などは無かった。けれど、悪気は無かった、なんて言葉は言い訳にしかならないことも分かっていた。
「ごめん」
 弱々しい表情で、けれどきっぱりとした口調で進藤から発せられた謝罪に、立松はゆっくりと顔を上げた。
(ああそうなんだ、謝っちゃうんだ、そうやって、いきなり、一方的に、一言だけ。 それ、楽でいいなあ)
 そんなのが、立松の本心なはずはなかった。本意ではなく、進藤を心の中で責めた。
「やっだー、そんな深刻そうな顔して謝んないで〜。びっくりするじゃん!」
 明るい声で言って、立松は進藤の肩を叩く。進藤は不意を衝かれたように、驚いた目で立松を見た。
「進藤がさ、安田のこと、まだ引きずってるみたいだから、なんか心配だったっていうか。あと、うーんと、恥ずかしいけどヤキモチもあったんだよね〜。だってさ、今は俺たちと一緒にシンクロやってるわけじゃん。だからさ、なんていうか、うん、つまりやっぱりヤキモチだよ! ごめんね!」
 これが本心の全てなら、これだけで自分の気持ちを打ち明けたことになるならば、どんなにいいかと立松は思う。急に言葉が無意味に思えた。じゃあ心は? 言葉に出来ない心には意味があるのだろうか。それ以前に、意味があるってどういうことなんだろう。

 一回しか言わないからな、と、真剣な表情で進藤が前置きした。一体何を言う気なんだろうと、立松の心が緊張する。

「お前が転校して来てくれて、よかったよ。本当に、ありがとう」

 
ああ、また、目の奥の、一点が、痺れるように、じんとする。何物も立ち入れぬ場所に、進藤が踏み込んで来る。立松は思わず手で瞼を押さえそうになったが、はっと我に返って、髪を触って誤魔化した。言葉も心も無意味なのではないかと思った矢先に、進藤の言葉に激しく心が揺らいだ。言葉はここにあるし、心はここにある。意味の有無に関わらず。

 照れるじゃん、と立松が言うと、俺だって照れるよ、と進藤が返した。
“お前には分からない”も“転校して来てくれてよかった”も、どっちも進藤の本音なのだろう。立松は、二つの言葉を頭の中で何度も反芻してみた。愛しい人を撫でるように。まだ癒えぬ傷口をなぞるように。




(安田、俺は、お前に訊きたいよ。訊いたって、無駄だろうから、訊かないけど)

“もう、僕と進藤は住んでる世界が違うんだ”

(「もう」って、だったら、以前は進藤と同じ世界に住んでたのかよ。
 俺と進藤はどうなの? 同じ目標持って一緒にシンクロやってたら、一緒の世界に住んでることになるの? そんなもん? 大体、住んでる世界が違うとか同じとかって、どういうことだよ。そんな抽象的な表現じゃなくて、もっと具体的に教えてくれよ。好きな人と同じ世界で手に手を取り合って愛の言葉でも行為でも交し合って、って、それが理想?)

“もう、僕と進藤は住んでる世界が違うんだ”

(うまいこと言った気になってんなよ)





 予備校の授業を終え、安田が外に出ると、立松がいた。自分でも意外なくらい、動揺しなかった。多分、また近いうちに、立松は自分のところに来るだろう、と安田は漠然と不安に思い、そしてそれに対する覚悟を決めていたのだった。
「今日は逃げないのね」
 からかうように言う立松に、そんな堂々と待ち構えられてたらさすがにね、と安田は返す。
「仕返しとして、ひどいこと言いに来た」
 何の用、と安田が訊く前に立松が言い放ち、安田は身構えた。何を言われても慌てるな、と自分に言い聞かせる。
「なんてウッソー」
 緊張で心身を硬くしている安田に、立松はおどけた調子で言って笑った。びっくりした? なんて、白々しく訊いてくる立松に、安田の心はさらに警戒を強める。
「今日は安田に謝りに来たの。ごめんね」
 うそだ、と安田は思った。それにしても、嫌な予感だけはあったものの、よくよく考えてみると、安田には何故立松がここまで自分を構うのか分からなかった。わざわざ予備校の前で待つなんて。立松からしたら、自分なんて取るに足りない存在なはずなのに、と安田は卑屈にもそう思い、そんな自分にうんざりした。
「そんなに僕が気に入らない?」
 安田の言葉に立松は笑った。謝ってんのにそーゆーこと言うわけね、とズボンのポケットに両手を突っ込みながら立松が言った。
「謝られる理由なんか無い。それに、謝る気なんか、無いくせに、
 そう安田が言い終わるか終わらないかといったところで、立松がポケットから右手をさっと出し、拳を安田の顔めがけて突き出した。殴られる、と思って、安田は咄嗟に顔を逸らす。が、恐れていた衝撃は訪れず、不審に思って安田がおそるおそる顔を上げると、安田のすぐ目の前に拳を差し出したポーズのまま、立松が笑っていた。
「安田ちゃんに、飴あげる」
 立松の拳が緩んだかと思うと、一粒のキャンディーが落ちて来た。安田は反射的に、飴を腹の位置でキャッチする。
「疲れたときにはさ、甘いもの、いいよ」
 受け取ってしまった飴を凝視したまま黙り込んでいる安田に、毒なんか入ってないよ〜、と立松が笑った。
 安田は飴を握り締め、殴られた方がマシだ、と思った。






hsif lufituaeb





Aug.3,2003


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