出 鱈 目 に 描 い た ハ ー ト は 死 に 損 な い の 不 実 色 


ク レ ー プ フ ル ー ツ


熟 す る 前 に 暴 走 自 転 車 で 轢 き 殺 せ 



 窓から入り込む夕陽が室内に染み渡り、放課後の数学準備室の空気はルビーグレープフルーツの果肉色。ふと、背後でガチャリとドアの開く音がして、小野川は振り返る。
「ここにいたんだ〜」
 現れたのは一人の生徒。立松君…、と名前が唇から零れ落ちそうになるが、小野川はそれをなんとか飲み込んだ。立松の、金色に近い茶髪が夕方の日差しを受けて赤味がかる様子が不気味なほどに眩しくて、小野川は眉を顰めた。探してたんだよ、と言いながら部屋に入り、立松は後ろ手にドアの鍵を閉めた。なんで鍵を掛けるの!? と、さっと顔色を変えた小野川に、念のためですよ〜念のため、と立松が愉快そうに笑った。何もしませんよ、と続ける立松に、小野川の警戒心がさらに強まる。
「結婚控えた数学教師(約30)に手ぇ出すほど暇じゃないし不自由もしてないもんねー」
 今更そんな厭味にいちいち憤るほど暇じゃないし幼稚じゃない、と、小野川は心の中で言い返す。小野川は、全く悪びれない態度で平然と机に腰掛ける立松に、「座る場所、間違えてるわよ」と、極めて冷静な調子で言った。
「やー失敬失敬、うっかりしてました」
 ヘラヘラと、軽い笑顔は浮気な赤。ひらり、と、しなやかな動作で机から下り、小野川の隣りの椅子に腰掛ける。夕陽を受けて、立松の笑い顔がきらきらと輝いた。可愛らしいのは上っ面だけ。内部にたっぷりと詰まった瑞々しい残酷さが甘苦い香りを放つ。ナイフで切れ目を入れたなら、溢れ出すのはストレートな悪意。小野川は心底ぞっとした。
「相手の人、いいひとそうだね」
 立松だけでなく、シンクロ同好会のメンバーは、小野川の結婚相手を一度目にしている。結納の日、小野川のダイヤを届けに訪れたときに見ているのだった。「いいひと」という表現に、小野川はどこか引っ掛かりを感じてむっとした。立松の調子は、ちっとも誉めている様子ではなかった。むしろ揶揄の色が含まれていた。頬杖を突き、小野川の顔を覗き込む立松には一切視線を遣らず、小野川は机の上の資料をわざと忙しげに整理しながら、「私には勿体無いくらいの素晴らしい人よ」と返す。立松が小さく鼻で笑ったものだから、小野川は思わずかっとなる。
「何が可笑しいの?」
 憎悪すら込めて発した、押し殺した声だった。
「や、相手の人にばらしたらどーなるのかなあ、って思ったら、ちょっと愉快なきぶんになっちゃって」
 その言葉に、小野川は一瞬瞠目し、その後、憤りのためか手が小さく震え始めた。
「ばらすですって? あなたと私の間に、何があるというんです。ばらされて困るようなことなんて、何もありません」
「またまた〜。俺たちの間には、サインがあるじゃないの」
 立松は、ぴっと人差し指を立ててみせる。指を小野川の鼻先に当てようとすると、小野川は勢いよく立松の手を払い除けた。
「そんなもの、あなたが勝手に作ったものだわ。あなたが、一方的に、」
 小野川は、言葉が上滑りしていくのを感じていた。声が、不自然に上擦る。
「でもアンタ、それに従ってるでしょ」
 立松が、小野川に少しだけ顔を近付け、声を潜めて囁いた。小野川は死刑を宣告されたような思いにすらなる。眉間に鋭いナイフを突き付けられた気分になった。喉が、砂漠のように渇き、冷や汗が零れ落ち、さらに心身、乾く。目の前の男子生徒は、おぞましいほど潤って、艶めいている。けれど少しでも触れようものなら、悪意に絡め取られて命を落とす。
 小野川と立松の間には、確かに、サインがあった。ピースサインは「放課後、体育館の裏へ来い」。指が一本増えて、三本立てれば「後で数学準備室で」。四本ならば「今夜電話しろ」。イエス・ノーは、単純に、首を縦に振るか横に振るか。小野川は立松から出されるサインに、いつも首を横に振ることで拒絶の意を伝えるのだったが、結局は従うはめになっていた。どうしても、逆らうことができないのだった。それは何故なのか。立松を恐れているのか、惹かれているのか、その両方なのか、それとも、もっと別の理由があるのか。小野川には自分の気持ちが分からなかった。いや、分かりたくないのかもしれなかった。
 そんな怯えないでよ〜、と笑って、立松が唇の前で人差し指を立ててみせた。部屋に入って来てから、その手振りは二度目だ。人差し指を一本立てるのは、「あいしてるよ」を意味する。これは全く、悪い冗談だった。授業中、小野川がふと目を遣ると、立松がゆっくり人差し指を立ててみせ、口元だけでからかうように微笑むことがある。その度に小野川は、心臓に氷の杭を打ち込まれたような気分になるのだった。
 小野川は、何度も首を横に振った。出てって、と、かろうじて発した言葉は、今にも息絶えそうな弱々しさ。立松は、少しだけ笑った後、空を切って何かの形を描くように、人差し指をさっと動かした。それは、ハート形を示していたのだが、指の動きが速過ぎて、小野川には分からなかった。
 なんなの? と訝って問う小野川に、「新しいサインだよ。今思い付いたの」と、立松は楽しそうに答える。
「どういう意味?」
 恐る恐る訊いた小野川に、

「キスして」

 と、返した立松の顔が意外なほどに真顔だったので、小野川は呆然としてしまう。「って意味」と付け足して、立松が笑った。すぐに、軽い表情に戻ってしまう。
「なんてね。冗談だよ。ほんとはね、『永遠にサヨウナラ』って意味」
 小野川の反応を待たず、一方的に言って、立松が席を立った。
「そゆことだから。じゃーね、センセー。おしあわせに〜」

 鍵を開ける音。ドアが開いて閉まる音。立松が廊下を歩く音。去っていってしまう。さようなら。永遠に。ほんとうに。小野川の胸にどっと押し寄せる、別れの感覚。別れる? 付き合ってもいないのに、別れ、だなんて。何を失ったわけでもない。そもそも何も手に入れていないのだから、失いようがないのだ。しかし、二人の間にサインはあった。サインは、あった? 今改めて考えてみるとあまりにも頼りない。部屋は依然と、ルビーグレープフルーツの果肉色。




完 全 無 欠 に 描 い た ハ ー ト は 人 殺 し の 残 虐 色 


口 に し て は な り ま せ ぬ ! 


世 界 の 果 て の 絶 壁 か ら 突 き 落 と せ 











Aug.31,2003





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