土曜日、補習を終えて帰宅した進藤に気付いた母親は、
「あら、勘九郎、立松君来てるわよ」
 それだけ言って、台所に引っ込んでいった。
 楽しげな声が聞こえてくる居間に行けば、父親と仁美と一緒に立松がテーブルを囲んでトランプをやっている。立松があまりに進藤家の居間に馴染んでいる光景を一歩引いて眺めていると、いっそ呆れたような思いになる。父親と、妹の仁美と、立松、端から見たら普通に家族だ。
「あ、勘九郎、タテノリ来てるよ」
「立松君が来てくれてるぞー」
 それは見れば分かる。
「おかえりなさい、進藤ちゃん。補習おつかれ〜!」
 なんで来たんだよ、と、ちょっと冷たい言い方してやろうかと思ってた矢先、家族からは無かった労わりの言葉を掛けられて、ふっと胸が軽くなる。

 今日の補習が決まったのは、昨日のことだ。数学のテストの赤点者を対象に補習をすると言い出したのは小野川で、それは金曜の一時間目のことだった。明日の午前中は補習をします、と、授業が始まる前に小野川がきっぱり言い放つと、「えー」と不満げな声を上げる生徒もいた。「出たくなければ出なくても構いません」と、さらにきっぱりとした調子で小野川は言った。「絶対に出るように」と言われるよりも、なんとなく恐ろしかった。目には見えない強制力を感じ、進藤は心の中でそっとため息を吐く。赤点などとはさっぱり縁の無い隣りの席の男が、机の隅を指で叩く。なに? と目で答えれば、補習出るの? と口だけを動かして訊いてきた。一息置いて進藤が頷くと、立松は少しつまらなさそうに頷き返した後、「じゃあ午後から会おうね」と小声で言った。土曜日は、朝から立松と会う予定だった。会って、具体的に何をするか決めていたわけではない。清々しい秋の空気を吸いながら二人で散歩しよう、なんて立松は言っていた。
「散歩…」「不満? 進藤ちゃんと二人きりでお散歩。楽しいだろ〜な〜」「…勉強は?」「勉強もするよ!」「するんだ…」「えっ、不満?」「いいや?」
 少し前に交わされたやり取りを思い返す。きっと、立松と一緒ならなんだって楽しいんだろう。散歩でも、勉強でも、何もしなくても。改めてそんなことに気付くと、なんとなく照れ臭かった。
 予定が狂ってしまって、立松はあからさまに残念そうにしている。それでも午後からは会えるのだから、と気を取り直していたが、続く英語の授業で土曜の補習(やはり赤点をとった者が対象)が宣言され、さらに午後の国語の授業でも…。数学だけでははなく英語と国語の補習も、対象者に入ってしまっている進藤は大きなため息を吐いたが、さらに大きなため息を吐いて肩を落としたのは全く対象範囲外の立松だった。別にいつでも会えるだろっていうか毎日会ってるじゃん、と内心はがっかりしてるくせに無理矢理平然を装って言った進藤に、学校で会うのと休みの日に会うのは違うよ、と立松は返した。
 もっといっぱい一緒にいたいよ。
 そう言ったときの立松は真顔だった。進藤は、赤くなった顔を隠すように俯いた。からかわれるかな、と思ったら、そんなことはなく、じゃあ日曜日に会おうね、と優しい調子で立松は言った。そうか、土曜が駄目なら日曜があるじゃないか。今更気付いた自分に呆れてしまう。視界が、ぐっと狭まってる。目の前のことしか見えてない。

 約束は土曜日から日曜日に変更になったのだと思っていたのに、立松は今ここに居る。そして、進藤の父親と妹と一緒に、仲良くトランプをしているのだった。
「あ、ハートのエース。スペードのエースもダイヤのエースもどっかで見たなあ。ねえ、タテノリ、どのへんだっけ? ヒントちょうだい」
「こら、仁美、立松君に聞くのは無しだぞ」
 見れば神経衰弱だと分かるが、一応「何してんの」と訊けば、「トランプだよ」とさらに分かりきった答えが仁美から返ってきた。
「神経衰弱。久しぶりにやると面白いよ〜。進藤ちゃんもやろうよ〜」
「これが終わったら、勘九郎も一緒に七並べをしよう」
「七並べよりポーカーにしようよ」
 仁美の提案に、父親が「ポーカーはよく知らない」と答えると、仁美は「えー」と不満げな声を上げた後、「教えるから!」と張り切っている。
「立松くーん、夕飯食べてってねー」
 台所から母親の声が聞こえてきて、立松は、「あ、はい、すみません、いただきます」とはっきりとした声で答える。
 はい進藤ちゃんの席はここねー、と立松が自分の隣りを手で叩いた。
「俺はいい。疲れてるし。ご飯できるまで部屋に居るから。立松はトランプやってていいよ」
 勘九郎ったら拗ねてんのー、と仁美にからかわれたが、進藤は構わず階段を上がった。別に拗ねてるわけではない。朝から夕方までずっと補習を受けていて、疲れているのは事実だ。立松が来てくれたのは嬉しいが、家族といかにも仲良さそうにしている様子を見てなんとなくさめた気持ちになってしまったのも事実だった。
 父親と仁美に一言詫び、立松は慌てて進藤を追って階段を駆け上がってきた。進藤がドアを開けて部屋に入るのと一緒に、立松も無言で入ってくる。
 ドアが閉まってから、すぐに立松は口を開いた。
「あのー、『俺が真面目に補習受けてる間にお前はのんきにトランプかよ!』ってちょっとむかついてるでしょ。えーと、でもね、俺が進藤ちゃんち来たのってほんの30分ほど前なのよ。もー進藤ちゃん帰ってる頃かなーと思って来てみたんだけど、なんか、いなくて…」
 いつもよりもちょっとぎこちない調子で言葉を紡ぐ立松に、進藤の胸の中、微かに浮かんでいた靄がすーっと晴れていく。
「えっと、あのね、何が言いたいのかというとー、俺は、進藤ちゃんのパパや仁美ちゃんとトランプするためでも、夕飯ごちそうになるためでもなくて、進藤ちゃんに会うためにここに来たんだからね? だから…、
 って…、あーっ! 進藤ちゃん、何笑ってんの!?」
「だって、別に何も言ってないし、なんとも思ってないのに、立松が必死で言い訳するから」
「必死じゃないもん! 言い訳じゃないもん! 普通に思ってることを言っただけですー」
 頬を膨らます立松は子どものようだ。お前いつまで笑ってんだよ、と立松が進藤の額を軽く弾く。その「お前」という響き、でこピン以上に甘ったるくて照れ臭い。大概「進藤ちゃん」と呼ぶから、たまに「お前」や「進藤」が出てくると、少しだけどきりとしてしまう。

「明日日曜だしさ、泊まってけば?」
「えっ!」
「何その反応」
「さらっと誘うなあ」
「ばーか。勉強見てもらいたいだけなんだけど」
「えー、なんの勉強よー」
「あーもーいい。帰れ帰れ。夕飯食ったらそっこー帰れ」
「アッハ、やだ〜、照れちゃってー」
「…お前なあ…」
「いや! 怒らないで!」
「怒ってない。呆れてるだけ…」
「それ余計傷付くわー」
「傷付かない傷付かない」
「傷付く傷付く。超傷付いた。ちゅーしてくれたら治るけど」
「すぐそういう方向に話を持っていく!」
「あーん、軽蔑の眼差しを送らないでー」
「もっと普通に世間話とかしようよ」
「ハ、世間話てアナタ…。じゃー進藤ちゃん、適当に世間話振ってみ? タテノリ合わすから」
「…めっきり秋ですねー」
「ですねー。めっきり受験ムードですねー」
「……」
「続かないじゃん」
「…そうなの?」
「何が」
「そんなめっきり受験ムードなわけ? 世間は…」
「進藤ちゃん…」
「な、なんだよ、その哀れみの眼差しは」
「俺がついてるからだいじょーぶだよ。絶対受かるからさ、ね?」
「…もういい…、受かるとか落ちるとか言わなくていい…」
「えっ、落ちるとは言ってないよ落ちるとは」
「落ちる落ちる言うなよ!」
「えっ」
「それにしても」
「ん?」
「俺が赤点とかとらなかったら、朝から一緒にいられたのにな」
「えっ!」
「なに」
「なにって…」
 立松の白い耳がほんのりと赤くなるのを、進藤は眩しい思いで眺める。なんだかなあ。受験の不安が身を潜めてしまって、またもや視界が、心が、ぐぐっと狭まって、目の前の人だけでいっぱいになってしまう。こういうのはどうかと思うと、感じてはいても。止められるものではないでしょう?
 しばらく無言で見詰め合っていた二人だったが、ノックの音ではっと我に返ることになる。
「夕飯、用意できたわよ」
 呼びにきたのが母親でよかった。もし仁美だったら、ノックも無しに入ってきていたかもしれない。見られたらまずいことをしていたわけではないのだが、こういうムードのときに入り込まれるのは心臓に悪い。

 食後のデザートはアイスクリームだった。目の前に出されている暗赤色の容器を眺めながら、これは…、と進藤は昨夜のことを思い出す。麦茶を飲もうと思って冷蔵庫を開ける際に、なんとなく中を物色していると、冷凍庫に三つアイスクリームが入っているのを見つけた。気軽に買って食べるような、一個100円のアイスではなかった。食べてもいいか、と母親に問うと、「今日買ってきたばかりなのよ。もうちょっと特別な日に食べたほうがいいんじゃない?」と言われた。特別な日ってどんな日だ。疑問に思いつつもなんとなく納得して冷凍庫を閉めるあたり、まったく庶民である。
 立松が訪れて夕飯を一緒に食べるのは別に珍しいことではないが、テーブルの上には当然のような顔をして例のアイスクリーム(ミニカップ)が鎮座している。進藤、立松、仁美の前にそれぞれ一つずつ、全部別の味だ。進藤がどことなく腑に落ちないのは、立松の前に置いてあるアイスこそ、昨夜母親から許可を得られれば食べるつもりのものだったことである。交換してほしいと言えばすぐに換えてくれるのだろうが、なんとなく言い出せないでいるうちに、仁美がはりきってカップの蓋を開けたので、続いて進藤も目の前に置かれているアイスに手を伸ばした。
 みんな気付いているのかな。立松のアイスだけ、ちょっと大きい。

「立松君、明日は日曜だし、泊まっていったら?」
 母親が言うと、立松は少々の間の後、「ご迷惑でなければ…」と返す。父親と仁美は、「全然迷惑じゃない」などと言って、立松に泊まることを勧めている。おいおい、立松は俺の友達(っていうか…)だぞ、と、立松の宿泊について家族から意見を問われない進藤がやや呆れていると、立松はふと進藤に向かって訊いた。彼だけをしっかりと見据えながら。
「進藤ちゃん、泊まってってもいいですか?」
 何を今更。全然普通に泊まる気だったくせに。明らかに何かを含んだ言い方をする。誰にもばれるわけない、互いにしか分からない含み方ではあっても、家族で食卓を囲んでいるときにそういうのはやめてほしい。全く心臓に悪い、と進藤は思う。
 立松は進藤の唇が開くのをじっと待っている。

 進藤の返答に、立松は微笑むのだろう。とびきり甘いデザートよりももっと甘くね!

「…どうぞ、ご自由に」




愛しのドルセ・デ・レチェ
Aug.16,2004

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