あの日、光り輝く庭で摘んだ瑞々しいバラの花と、その棘で傷付いて流れた血はおなじ色でした。








 引き出しから取り出した薄い水色のハンカチは、元々は自分のものではなかった。清潔なハンカチから記憶を引きずり出そうと精神を集中してみても、意識はすぐに拡散、試みは失敗する。 「勘九郎! 何やってんの? 遅刻するわよ」 母親の声で進藤は弾かれたように顔を上げる。ハンカチを制服のズボンのポケットに捻じ込み、部屋を出て階段を駆け下りて行った。








 去年の夏。シンクロの練習を終え、自転車に乗って家路を辿る。練習のせいで体は疲れているはずだったが、心が高ぶっているせいで、少しも疲労を感じなかった。いや、身体のだるさが、逆に心地良く感じられていた、と言ったほうがいいか。学園祭のことを思うと、期待と不安と緊張で心がぴんと張り詰める。進藤はその感覚が好きだった。高一の夏、フェンス越しにシンクロ公演を見たときの衝撃。シンクロに興味があったわけでも泳ぎが得意なわけでもない。水泳はむしろ苦手な方だ。泳ぎに限らず、スポーツ全般があまり好きではなかった。なのに無謀にも水泳部に入部した。同じ思いを持っている友人がいたということも大きかったが、“自分もあの中に入ってやりたい”という、最初に湧き起こったその気持ちに背中を押され続け、ずっと自分なりに頑張ってきた。あれからもうすぐ一年。望み続けた舞台にやっと上がれる日が近付いている。本番をイメージしようとすると、胸が詰まった。待ち遠しく思う反面、学園祭の訪れを恐れてもいた。その恐怖感も、息苦しくも心地良い高揚の大切な一部だった。
「家まで競争しよっか」
 進藤の提案に、隣に並んで自転車を走らせていた安田は、えっ、と短く聞き返す。
 今朝から進藤の家族は、祖父母の家に出掛けており、明日の夜まで留守にする予定だった。シンクロの練習を優先して家に残った進藤は、家族が居なくて気を遣うこともないから明日家に泊まりに来ないか、と昨日、安田に言った。人の家に遊びに行ったり、人を家に招いたりすることが苦手な安田だったが、少しだけ迷った後、進藤の誘いに応じた。自転車のカゴに入った安田のバッグは、着替えや洗面用具や手土産(進藤には気を遣わなくてもいいと何度も言われたが、安田は手ぶらで人の家に泊まりに行けるようなタイプではなかった)のせいで、いつもよりもずっと膨れていた。
 安田の返事を待たず、進藤はペダルを踏む足に力を込め、速度を上げて自転車を走らせた。一気に強まる風の抵抗が爽快に感じられた。
「ちょっ、ちょっと進藤! 待ってよ!」
 慌てて安田もスピードを上げ、進藤を追う。
 唐突に始められた自転車レースは、思わぬアクシデントで中断を余儀無くされた。走行中、地面の凹凸を上手く越えられず、自転車に乗った進藤が転倒してしまったのだった。バランスを失い、転ぶ、と思う間もなく、進藤の視界が引っくり返った。転んだ進藤以上に、安田の方がずっと驚き、進藤! と慌てて側に駆けつける。
「大丈夫!?」
 横になって倒れている進藤の傍らに屈み、安田は進藤の腕を確かめるように揺さぶった。進藤の顔は伏せられていて、安田からは見えなかった。進藤の背中が小刻みに震えている。あまりの痛さに泣いているのか? と安田は動揺したが、すぐに唖然としてしまうことになる。進藤は、笑っていたのだった。最初は声を殺すようにして笑っていた進藤だったが、次第にはっきりと笑い声を上げていった。進藤の様子を呆然と眺めていた安田だったが、進藤がいつまで経っても笑い止まないので、頭でも打ったのではないかと心配になってくる。進藤? と不安げに呼びかけると、進藤は、ゴメンゴメン、とやはり笑いながら言って、上半身を起こして安田と目線を合わせた。
「…大丈夫?」
「うん、平気」
 怪我してないかと訊かれて初めて、進藤は自分の右肘が特別な熱を持っていることに気付く。腕を曲げて確かめると、肘が擦り剥け、血が滲んでいた。今まで痛みは感じていなかったのに、傷口を目にした瞬間、痛みが込み上げてくる。
「進藤、血が…、」
 安田の眼は、進藤の擦り傷に吸い寄せられた。剥がれた表皮の奥からじわじわと染み出てくる血液を、息を詰めて見ているうちに、“傷口に触れてみたい、血を舐めてみたい”という欲求が芽生え、安田は自身の気持ちにうろたえた。慌ててポケットからハンカチを取り出し、進藤の右肘にそっと宛てがう。進藤を思い遣って、というよりも、自分の欲望から目を背けるためだった。
「大丈夫、全然使ってないやつだから、清潔だよ」
「…ハンカチが汚れるよ」
「構わないよ。…痛い?」
「ちょっとな」
 ハンカチは洗ってから返すよ、と言った進藤に、別にいいよ、そのハンカチはあげるよ、と安田が返答する。進藤はなんとなく照れ臭くて、そう? とだけぶっきらぼうに答えた。

 立ち上がろうとする進藤を、支えるように手を伸ばした安田に、一人で立てれるって、と進藤は苦笑した。進藤の言葉に軽く頷いてから、安田は転倒したままだった進藤の自転車を起こす。自転車の様子をざっと見て、少し前後に動かしたり、ベルを鳴らしてみて、何も異常が無いことを確認し、安田は一息吐く。
「自転車は全然平気みたい。怪我、大したことなくて良かったけど、ほんとびっくりしたよ」
「うん、ごめん」
 ありがと、と言いながら、進藤は安田が起こしてくれた自転車のハンドルに手をかけた。自転車に乗れそう? と心配げに訊ねてくる安田に、進藤はまたしても苦く笑うしかなかった。
「肘ちょっと擦り剥いただけだから。他は全然なんともないし」

 サドルに腰掛け、進藤がふと上空を見上げると、さっきまで明るかった空が、魔法でもかけられたように、いつの間にか夕暮れの色に染まっている。
「安田、ほら、空、ピンクだよ」
 進藤の言葉に、ピンクっていうかバラ色だね、と安田は返した。安田の思うバラ色と、自分の思うバラ色は違う色なのだ、と進藤は思い、それが少し哀しくて、でもどこか嬉しい気もしていた。


 自転車をこいで家に向かう道すがら、安田はちらちらと進藤の方を窺っては心配げな眼差しを送っていた。数日で完治してしまうようなちょっとした擦り傷だというのに、と進藤は少々困惑する。それとも、また転ぶのではないかと案じているのだろうか。自分はそこまで間抜けではない(と思いたい)。今回に限らず、安田はいつも進藤を気に掛けていたが、進藤は、安田の方こそ心配だ、と思っていた。人の頼みを断れない安田は、面倒な役回りを押し付けられることがしばしばある。日直でもないのに日誌を書いていた安田に、なんで安田が? と訊くと、「すぐに部活に行かなきゃならなくて日誌なんて書いてる暇ないから書いといて」と日直に頼まれたという。部活に行かなくてはいけないのはこっちだって同じだ。なんで安田がそんな無責任な日直の代わりに日誌を書かなければならないのか。嫌なことは嫌って言ったほうがいいよ、と言った進藤に、安田は困ったように笑ってみせただけだった。進藤は、安田のそういうところが心配でならなかった。優しさと弱さは別物だ。でも明確に区別できるわけじゃない。人の優しさに付け込んで上手く利用しようとするずるい人間もいる。その手の人間に安田が使われることが、進藤には絶え難く思えた。

「怪我したところ、水で洗ったほうがいいよ」
 家に着いたすぐ、そう言った安田に、分かってるよ、と返しそうになったが、進藤は黙って頷いて洗面台に向かった。
「救急箱は? 手当てしないと」
「いいよ、そんなの。ほっといたら治るって」
 進藤が笑って首を左右に振ると、でも消毒くらいはしておいたほうが…、と安田は不安に顔を曇らせた。別にいい、で通してもよかったのだが、そうするとずっと心配され続けそうな気がしたので、進藤は消毒薬を出してくることにした。
「僕がやってあげるよ」
「自分でできるよ」
「進藤は不器用だから」
「…安田も器用な方じゃないだろ…」
「進藤よりはマシだと思う」
 安田の言い様に少しだけむっとしたけれど、安田が穏やかに笑っていたので、進藤もなんだか可笑しい気持ちになってきて、じゃあ任す、と安田に右腕を預けた。
「いっ…!」
 ちょっと痛いと思うけど我慢して、と事前に言われたし、言われなくても分かっていることだから心の準備はしていたが、消毒薬が傷に沁みる感覚に、進藤は思わず声を上げてしまう。引いてしまおうとする腕を引き止めようと、安田は進藤の腕を掴む手に力を込めた。消毒中の傷口よりも、握られた腕の部分の方が熱く感じられ、いつも柔和な安田の中にこんな強い力があったのか、と進藤は驚く。そっと安田の顔を覗き見ると、彼の表情は真剣そのものだった。静かに伏せられた安田の瞼を縁取る睫毛は、あまりにも繊細で、「じっと見たことないから今まで知らなかったけど、人の睫毛ってこんなに綺麗なものなんだ」と進藤に思わせた。
 終わったよ、と言って顔を上げた安田は、ほっとしたように微笑んでいた。張り詰めた気持ちだった進藤は、息を吐いてからお礼を言った。

 ふと思い出したように、かき氷食べる? と言った進藤に、安田は曖昧に頷いた。つい最近かき氷器を出したのだという。
「家で作って食べるとあんまり美味しくないんだよなあ、何故か」
「うん」
「だから別に美味しくないと思うんだけど、食べる? とりあえず」
 笑いながら聞いてくる進藤に、「うん、食べる、とりあえず」と安田も笑って返した。進藤は怪我してるから僕が作るよ、などと気を遣って立ち上がろうとする安田を、客なんだから座って待ってろって、と進藤が押し止める。キッチンに向かいながら、メロンとイチゴのシロップがあるけどどっち? と聞く進藤に、安田は迷わず、イチゴ、と答え、そわそわしながら座って待った。

 見るともなくテレビを見ながら、二人は銀のスプーンでさくさくとかき氷を口に運ぶ。進藤はメロン、安田はイチゴのシロップがかかったかき氷を食べていた。人工的な色と味を付けられた雪は、熱い舌に触れた瞬間に脆く溶ける。舌の色変わってるかなあ、と進藤が独り言のように言うと、見せてみて、と安田が返した。進藤は視線をテレビから安田の方に向け、そっと舌を出した。ピンク色の舌の真ん中が、丸く緑色に染まっている。目を逸らしたいのに逸らせないような、残忍で卑猥な色だった。舌だけが別の生き物のようだった。その生き物は悪意を持った調子で、お前の欲望などお見通しだ、と安田の胸の中に直接話しかけてくる。安田の鼓動が不穏に高まる。目に強い乾きを感じ、何度も瞬きしてみるが、ますます乾いていくように感じられた。
「緑色になってた?」
 進藤の舌がやっと口の中に仕舞われ、安田は心底ほっとした。
「うん、緑色、なってた。悪魔みたいだと思った」
 安田の返答に進藤は笑った。まんざら冗談でもないのにな、と安田は思ったが、取り繕うように曖昧に作り笑いをする。
「安田も、ベロ、見せて」
 ベロ、という言葉の響きが妙にいやらしく聞こえて、安田は息を呑んだ。自分の舌の色が、とんでもない色になっていたらどうしよう。ぞっとするほど濃厚な欲望の色に染まっていたらどうしよう。そいつが進藤に話しかけたらどうしよう。恐怖だった。それでも恐る恐る舌を出したのは、露呈すればそれはそれですっきりするかもしれない、という、破滅的といってもいいような感情からだった。
「うーん、赤いことには赤いけど、ちょっと分かりにくいなあ…」
 もっとしっかり見ようと、進藤がテーブルに手を置いて身を乗り出し、向かい側に座っている安田に近付いた。次の瞬間、頭の中で何かの糸が切れるような音がして、安田は衝動的に進藤の肩を掴んで口付けた。進藤の体が一瞬にして強張ってしまうのがはっきりと分かった。発色を押し殺していた自分の舌は、今口の中ではっきりと赤くなっていることだろう、と安田は思う。赤い舌で、緑色の生き物を絡め取るみたく進藤の舌に触った。
「…ごめん!」
 唐突に糸が切れたのと同じような唐突さで我に返り、安田は進藤を突き放すようにして体を離した。焦っていたせいで、かき氷の入った器に手が当たって倒してしまい、テーブルに中身がぶちまけた。
「ごめん…」
 消え入る声で、また謝る。どんな謝罪も無駄に思えた。
 進藤は恐ろしいほどに無言で、零れた氷で指を冷やすように、テーブルの上の雪を手で弄った。進藤の指の熱で、雪は溶けて赤く透きとおった液体になる。その光景を見ていると、安田はまた我を失いそうになる。
 安田は、進藤の手首を掴んで引き寄せ、冷たく濡れた人差し指を自分の唇に運んだ。舌に染み込んでいって、内部から組織を冒すような、有害な甘さだった。罰があたる、と安田は思った。夜には舌が腐って抜け落ちてしまうかもしれない。頭のすぐ上から降り注ぐように訪れる欲求は、押さえようとしても心身を伝ってさらさらと流れ落ち、やがては足元に赤くて丸いプールを作る。そうなると、もう、どうしようもなくて、足を捕らえられて動けなくなり、欲求の言いなりになるしかないのだった。
 打ちのめされた思いで、進藤の指を口の中から解放し、安田はゆっくりと進藤から離れた。進藤は身じろぎ一つせず、自分の指を見つめていた。いつ取り乱すのかと思って覚悟をしていたが、進藤はいつになっても口を開かない。安田は、一生続くかと思われるような沈黙に、死んでしまいたくなった。
「ごめん、帰るよ」
 つまんないものだけど、と言って手土産に持ってきた菓子の詰め合わせをテーブルに置いて、安田は立ち上がる。進藤が引き止める間も無く、安田はバッグを持って逃げるように去ってしまった。
「…なんなんだよ…」
 進藤は、小さく呟く。冷蔵庫の中には、息子とその友達のために母親が用意してくれた夕飯がある。レンジで温めればいいだけになっていた。布団も、客用のものを用意していた。部屋だって掃除したのに。
「どうしろっていうんだよ…」
 本当に、どうすればいいのか。進藤は深く息を吐き、項垂れた。テーブルの上では、安田の零れたかき氷が完全に溶け切り、静かに水溜りを作っていた。取り残された進藤の指が次第に乾き、浜に打ち上げられて死んでゆく魚のように小さく痙攣した。









 「進藤ちゃん、ハンカチ貸して」 学校のトイレの水道で立松に言われ、ポケットからハンカチを出そうとして、進藤はふっと手を止めた。 「…ごめん、忘れたみたい」 進藤の言葉に、立松は不満げな声をあげる。これからは忘れないでね、なんて勝手なことを立松が言った。忘れた、と、嘘を吐いたのは、清潔なはずのハンカチが、血で汚れている気がしたからだった。
















Jul.20,2003


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送