信じられないくらい深いプールの奥に 光る一点を見つけ
誘われるようにそこを目指す
手で水を掻いて 足で水を蹴って 奥へ奥へと進んでいく
閃く一点へとただもうひたすら!

しかし いくら潜っても 光源に辿り着けない
それどころか 少しも近付けない








 ベッドから転げ落ち、進藤は目を覚ました。床に思い切り胸を打ち付けてしまった苦しさで、うつ伏せの状態のまましばらく動けなかった。落下の衝撃ゆえか夢の余韻か、瞼の裏で白い光がちらちらと明滅していた。ベッドサイドの目覚まし時計が鳴り始める。音を止めるべく、唸りながら上体を反らして目覚まし時計へと手を伸ばす。が、しかし、指が触れた瞬間、目覚まし時計はぐらつき、手をすり抜けて落下した。しかもさらに不運なことに、落下場所は進藤の額だった。ぎゃっ、と短い悲鳴を発し、今度は仰向けの状態になって、顔を押さえたまま動けなくなる。
(最悪だ…)
 額がじんじんと熱く痛んだ。床に転がった目覚まし時計は、倒れたまま狂ったようにけたたましく鳴り響いている。
「何やってんの、勘九郎。うるさいんだけど」
 いつの間にかドアが開かれていて、入り口で妹の仁美が呆れた眼差しを兄に注いでいた。
(ほんとに最悪だ…)
 というような情けない朝から進藤の一日が始まった。

「進藤ちゃん、オデコどうしたの〜!?」
 登校し、教室に入って席に着いた進藤に、立松は早速突っ込みを入れた。目覚まし時計の直撃によって額の一部は赤く腫れてしまい、前髪でなんとか誤魔化そうと努力したものの、隠し切れなかったのだった。
「別にどうもしないって」
 額を隠すように前髪を梳く進藤の手を掴み、どうもしなくないでしょ、と言いながら、立松は進藤の前髪を上げて額をまじまじと見つめた。
「うわー、デコ赤く発光してんじゃん。額に第三の目が現れる兆候なんじゃないの?」
 俺は一体何者だよ! と抗議して進藤は立松の手を乱暴に払い除けた。
「ベッドから落ちて目覚まし時計も落ちてきてこうなったんだよっ。悪いかっ」
「や、悪くはないよ。ていうか進藤ちゃん、もうちょい分かりやすく話してね。俺は勘で分かるからいいけど」
 それにしても悲惨だね〜可哀想だね〜。立松は猫撫で声を出しながら馴れ馴れしく進藤の肩に触れてくる。その手をまた払って、暑苦しいからあっち行け〜と進藤は嫌そうな顔をする。
「あっち行けとか言われてましても〜、俺の席は君の隣ですもの」
 立松は、自分の机をガタガタと動かして、進藤の机に寄せてくっ付けた。
「うわっ何してんだよ! お前朝からテンション高過ぎ」
「朝から不幸な目に合っちゃって可哀想な進藤ちゃんを元気付けてあげようとしてんじゃないの」
「こら、そこ〜、静かに! もうホームルーム始まるわよ!」
 知らぬ間に教室に入っていた担任の佐久間が、朝から騒々しい二人の生徒を注意した。
 お前のせいで怒られた。進藤が文句を呟くと、立松は、いや〜今日はほんとに不運な日だね〜厄日なんじゃないの〜などと小声で冗談を言いながら机を元に戻した。言い返したいところだが、進藤はぐっと我慢して口をつぐんだ。私語のせいでまた担任に注意されるのはごめんだった。まあ自由に喋れる状況であっても、口で立松に敵う気はしなかったが。
 一時間目は数学だった。授業に集中しようとするも、目覚め方が悪かったせいかどうにも頭がぱっとしない(かといって、すっきり起きれた朝なら授業に集中しているのかというと、そういうわけでは決してないのだけれども)。教科書や黒板に書かれた数式も、先生の説明も、全てが別の世界の事柄のように遠く思えた。危うく意識を手放して眠りに落ちそうになったとき、ふとシンクロのことが頭を過ぎり、進藤は一気に目が覚める思いがした。学校の勉強をなおざりにするのはいけないと分かってはいるけれど、なかなか真剣に取り組めない。シンクロは、本当にやりたいことだから、自分にとって何よりも身近で切実なものだった。授業真っ最中の教室に身を置きながら、心はプールに居た。水の中に居た。そここそが、今自分の居るべき場所なのに、と思った。なんとなく隣に目をやると、立松はつまらなさそうに教科書を眺めていた。黒板にはぎっしり数式や図が書かれているのに、立松のノートにはほとんど何も書かれていない。たまに教科書にちょこちょこと書き込む程度だった。これで学年トップなんだよなあ…と改めて感心しながら眺めていると、視線に気付いた立松がこちらを向き、面白い企みを思い付いた子供のように笑った。嫌な予感が、するにはした。そしてこういう予感は、当たってしまうものなのだ。
 唐突に手を挙げ、きっぱりとした声で、先生! と言った立松に、進藤はびくりとする。
「どうしたの、立松君。何か質問?」
「進藤君がものすごく頭が痛いって言ってます!」
 立松の言葉に、他の生徒達がこちらに視線を注いでくる。進藤は唖然とし、一体何なんだ、という思いでいっぱいだった。
「進藤君、そうなの?」
 大丈夫なの? と心配して訊いているのではなく、立松が言ったことが本当なのかどうか確かめようとしてくる小野川の口調に気後れしたが、進藤はなんとか首を縦に振って頷いた。今の状況に強烈に緊張し、進藤の顔は引き攣り、青ざめ、本当に体調が悪そうに見える、というか現に体調が悪くなりつつあった。そんな進藤の様子を見て、小野川は、授業を受けられそうにないなら保健室に行って来なさい、といくらか優しい調子に変わって言った。しかし、僕が保健室まで付き添います、という立松の申し出に、小野川は少し眉を顰めた。
「進藤君、一人で行けないの?」
 矛先を向けられた進藤は、曖昧に首を傾げる。もう居たたまれなくてたまらなかった。一体何の罰ゲームかと思うほどだ。立松は本当に今日を俺の厄日にする気か、と、隣の席の男を呪った。
 小野川はどこか引っ掛かりを感じるようだったが、結局は渋々立松の付き添いを許可した。
 教室を出て静かにドアを閉めた後、進藤が問い質す暇を与えず、立松は進藤の腕を引いて早歩きで進んでいく。
「おい、ちょっと、どこ行くんだよ。そっちは保健室じゃないって!」
 声を潜めようと心掛けながらも、思わず声を大きくしてしまう進藤に、シーッ! と注意してから、ほんとに保健室行ってどうすんだよ、と立松は呆れた調子で囁いた。
「じゃあ、どこ行くんだよ?」
 極力小声で問う。『プール』なんて答えが返ってきたらどうしよう、などと思いながら。
「屋上」
 立松の返答は、進藤の予測範囲外のものだった。

 拒否も空しく、進藤は立松に強引に腕を引っ張られて屋上に連れて行かれるはめになった。空は爽快に青く晴れ上がり、外の空気は教室よりもずっと淀み無く澄んでいる。夏だから当然のように暑かったが、耐えられないほどの暑さでもなく、不快な湿気も感じず、比較的過ごしやすい天気だった。時折吹いてくる風が、二人の髪と白いシャツを靡かせた。
「お〜お〜、下界の者どもは忙しないのお」
 運動場ではどこかのクラスが、体育の授業でソフトボールをしている。その様子を手摺りから身を乗り出すようにして見下ろしながら、立松が笑った。
「お前なあ、どーすんだよ。これ完全にサボりじゃん。絶対ばれるし」
 抗議する進藤を、まあまあと立松は宥める。
「人生たまにはこういう休息も必要よ」
「俺を巻き込むなって」
「やだなあ、進藤ちゃんのためだよ? まあせっかくだから、今この時間は、勉強のこともシンクロのことも一旦置いといて、開放的な気分に浸ろう」
「…お前は色々開放され過ぎてる気がするけど…」
 言った後で進藤は、予備校の説明会を途中で抜けて帰っているときのことを思い出した。牛乳の販売店の前だったか、偶然目にしてしまった意味ありげな様子。何か事情がありそうな雰囲気だけは、なんとなく察せられた。立松にどんな事情があるかは全然分からないし、詮索しようとも思わない。思うがままに振る舞い、悩みなど無いように見える立松だが、彼にも色々あるのだろう。彼に限ったことではなく、悩みや苦しみを心に持たない人間など、きっといない。それなのに、自分のことだけでいっぱいいっぱいになってしまって、他人を思いやれないことがある。そういえば、と進藤はふと、しっかり者の幼馴染みを思い出した。彼女に対してもそうだ。自分のことを心配して構ってくれているのだと分かってはいても、それが鬱陶しく感じられて邪険な態度を取ってしまうことがある。
「男子の体育見てもむさ苦しくてつまんないね〜」
 立松は、黙っている進藤の肩を叩いてから、屋上の真ん中に向かって歩いて行き、よっこいしょ、と地面に横になった。仰向けになって、空に両手を掲げ、あ〜気持ちいい〜、と自分の部屋でくつろぐかのようにリラックスしている。
「お前、何してんだよ」
 呆れる進藤を手招きし、進藤ちゃんもこっち来て一緒に寝転がろうよ〜と誘う。
「やだよ。服汚れるし」
「分かった。じゃあ膝枕して」
「何が『分かった』だよ。余計やだよ」
 素気無い返答に、立松は笑った。進藤はさらに呆れてしまったが、無邪気に笑う立松を見ていると、どこか温かい気持ちになってきて、つられるように微笑んでしまった。だらだらとした足取りで歩いて行って、寝転がる立松の隣に腰を下ろす。そのまましばらく、二人して黙っていた。心地良い沈黙だった。吹いてくる風が肌に気持ちいい。
「学祭でシンクロ、やりたいな」
 独り言のように進藤が呟くと、立松はむくりと起き上がった。
「何を今更そんな当然のことを! やりたいよ。やるんだろ。やれるよ。絶対にやる。そうだろ? な、シンクロ同好会キャプテン!」
 キャプテンの肩を景気付けにバシッと叩いて転校生が笑う。叩かれた肩を押さえ、痛いよバカ、と文句を言いつつ進藤も笑っていた。期待通りの言葉を得られて満足していた。絶対にやるって、やれるって、当然のように自信満々な口調で立松が言うのを聞きたかったのだ。一気に気力が湧いてきて、今すぐにでもプールに飛び込みたい気分だった。
「まだ赤いね〜」
 脈絡無く唐突に額に手を伸ばしてくる立松から逃れるため、進藤は座った姿勢のまま思い切り後ずさった。
「うわっ、何なんだよ。痛いんだから触ろうとすんなって」
「いいじゃん、触らしてよ。ちょっとだけ。一瞬だけ。一ミリだけ」
 さらに後ずさろうとする進藤の腕を掴んで、詰め寄る。
「やだってば」
「俺が触ったら治るんだって! 神の手だから。治癒能力があんの。マジで」
「は〜!?」
「ほんと、ちょっとだけ! ね! 俺を信じなさい!」
 腕を強く掴まれて引き寄せられ、このまま抵抗を続けた方が痛い目見るかも、と感じた進藤は、覚悟を決めてぎゅっと目を閉じた。眉間にはこれ以上無いというくらい皺が寄っていた。
 額に触れた立松の手のひらは、ひんやりと冷たかった。人に触られたら絶対に痛い、と思っていたのに、全然そんなことない。むしろ気持ちが良かった。悪い熱がすっと引いていくようだった。進藤の眉間から皺が消える。
「エロイムエッサイム、エロイムエッサイム…」
「何なんだよっ!」
 思わず目を開け、立松の手を払う。手が離れ、心地良い冷たい感触が額から消え去ると、一気に名残惜しい気持ちになった。
「治癒の呪文を唱えてる途中に何すんの」
「いや、お前、悪魔呼ぼうとしてただろ」
 ワハハと笑ってから、立松は再び地面に仰向けに寝転がった。
「…つーか、治ってないし」
 立松に触れられている間は嘘みたいに心地良かった額が、今ではちょっと熱くて痛い。触られる前よりも痛くなってる気がするのは気のせいなのだろうか。
「治るよ、そのうち」
 無責任に言って、立松は目を閉じた。
「それはお前のおかげとかじゃなくて、単に自然治癒だな」
 進藤が文句を言うと、確かに、と返して立松が目を閉じたまま楽しそうに笑った。そんな立松の様子に少々むかつきながらも、最初っからこういう奴だったよなー、と諦め、進藤も立松に倣って地面に横になり、目を閉じた。夏の大気の匂いを、風の音を、リアルに感じる。瞼の裏に映るのは、目を開けば一面に広がる青空ではなくて、プールだった。隣に寝転がっている相手も、同じ光景を描いているのだろうと、わざわざ言葉にしなくても、お互い感じ取っていた。心地良くて柔らかな静寂が訪れる。
「進藤」
 静寂を破るのではなく、静寂に溶け込むような穏やかな調子で立松が言葉を発した。目を閉じたままで。
「ん?」
 進藤も、同じ調子で返す。
「頑張ろうな」
「…うん」


 信じられないくらい深いプールの奥に光る一点を見つけ、誘われるようにそこを目指す。手で水を掻いて、足で水を蹴って、奥へ奥へと進んでいく。閃く一点へとただもうひたすら。

 近付けそうにもないと感じていた光を、掴み取れる気がした。











Jul.14,2003


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