喉元過ぎれば熱さを忘れる。模試のあまりの結果に打ちのめされた進藤だったが、すっかり頭から抜けてしまっていた。練習の帰り道、そういや模試の間違い直しちゃんとした? と立松に問われ、あっ、と声を上げるまでに数秒要したほどである。間違い直ししないと意味無いよ、と言う立松に、進藤は、あー、とか、うー、とか、曖昧に返事をする。人の心臓潰す気なんじゃないかというくらい真っ直ぐ目を見て意見を言うこともあれば、今みたいに視線を斜め下に下げて言葉を濁すこともある。どっちも好きだなあ、と思いながら、立松は心の中で笑い、進藤の顔を覗き込んだ。
「俺さー、お母さんと約束しちゃったんだよね」
 ここで言う“おかあさん”とは、立松自身の母親でなく、進藤の母親を指している。約束? と進藤が、やや不安げな調子で問い返す。
「進藤君の勉強は僕に任せて下さい! 僕が責任を持って見ます! って、はっきりきっぱり自信満々と言い切っちゃったわけよ。約束は守んないとねー。わたくしの沽券にも関わりますし」
 俺の知らないところで勝手に約束してんなよ、と文句を言う進藤の肩を立松が宥めるように叩くと、進藤は、はあ〜、と長いため息を一つ。
「間違い直しっつったってなー、解説見ても分かんねえしなあ…」
「うん、だから、タテノリせんせいが進藤ちゃんのためだけにスペシャルな解説をしてあげる」
「あのさあ、過ぎたことはもういいじゃん? 後ろを振り返っても仕方ない。終わったテストは終わったテストとして、新しい気持ちで次を頑張れば、」
「いや、うん、真面目な話、間違い直ししないと意味無いよ。せっかく受けたのが無駄になる。間違い直した後、再テストして、また見直して、で、次に活かすの。前に進むために後ろを振り返るんだよ」
「お前、なんか偉そうだぞ…」
「ウフフ」
 でも正論だ…、と少し口を尖らせた進藤の肩に腕を回し、「ま、悪かったテストの問題や答案用紙を見返したくない気持ちは分かるけどね」と立松が笑った。いや〜お前には分かんないんじゃないかな、と、進藤は心の中で突っ込んだ。往生際悪く先延ばしにしようとする進藤を、善は急げだよ、とか、今日出来ることを明日に先送りしようとしちゃ駄目だよ、とか言い聞かせながら、立松は進藤の家に行った。
「あら、立松君。いらっしゃい」
 進藤の母親に笑顔で迎えられ、いや〜今日もお綺麗ですねーおかあさん、と立松はさらっと言ってしまう。ほんと立松君ったらお世辞ばっかり、と返しながら、母親はまんざらでもなさそうな様子だった。母親は、一緒に夕飯にしましょう、と立松を居間に通す。立松の姿を目にした途端、タテノリ! と進藤の妹の仁美が立ち上がった。よっナマイキ娘〜カワイイ服着てるな〜、と、やはり立松はさらっと言ってしまう。こいつって…、と、いっそ感心の念すら抱きながら進藤が立松を見遣ると、なによ、という目で立松が進藤を見返した。口元がからかうように笑っている。恐れ入るよ、まったく、俺は、人んち行ったら落ち着かなくてなんかびくびくしちゃって、一生かかったって、お前みたいに自然に感じ良く振る舞うことなんて、できる気しないよ。というようなことを思いながら、進藤は食卓についた。そんな進藤の思いを察したように、立松は一層笑みを深くして、進藤の隣りに座った。食事中、自然と立松が会話の中心になっていた。といっても、一人で喋りまくっているというのではなく、みんなに話を振ったり、相手の話に相槌を打ったりで、聞き役に回っていることが多かったのだが、確実に、彼が会話の中心なのだった。上手く相槌を打って、相手が話をしやすいようにしたり、そこから話が膨らむようにしたり、会話が途切れれば、さりげなく別の話題を提供する。みんなが楽しく話せるような雰囲気を作ろうとしている。作為など感じさせずに。会話の流れを、今この食卓の雰囲気を作っているのは立松だ、と進藤は思った。改めて注意してみて、初めてそういうことに気付く。
(もしかしてこいつってほんとすごい奴なんじゃないの?)
 進藤が立松をチラリと見ると、目が合った。
「進藤ちゃん」
「ん?」
「顎にご飯粒付いてるよ」
 えっ、と慌てて進藤が顎を触ると、ウッソ〜、と立松が笑った。勘九郎〜騙されてるし〜、と喜ぶ仁美。母親も父親も、愉快そうに笑っている。
(やっぱ「すごい奴」とか思ったのは取り消し!)
 進藤は、無言でご飯を掻き込んだ。

 夕飯後、進藤の部屋で模試の間違い直しをする。嫌がって先延ばしにしようとしていた進藤だったから、これは遅々として進まないかもなあと立松は思っていたのだが、驚くほどにはかどった。一旦腹を決めたらキャプテンは前進あるのみの男だな、と立松は改めて納得し、根詰め過ぎてもアレだからちょっと休憩しようぜ、と進藤の腕を叩いた。一気に糸が緩んでしまったように、進藤が机に突っ伏す。うー疲れたー、と唸る進藤を、間違えてるところが多いと大変ですナ、と立松がからかう。進藤は机に伏せた姿勢のまま、顔だけ横にして上目遣いに立松を睨んだ。立松は涼しい顔で解説集をパラパラめくりながら、俺の解説の方が上手だな、と独り言のような自画自賛。
「あっ」
 ふと声を上げた立松に驚き、机に預けていた上半身を起こし、どうした、と進藤が問う。立松は右手の人差し指をじっと見ていた。紙で指を切ってしまったのだった。バチが当たったんだよ、と進藤が冗談を言っても、立松は指を見つめたまま動かないので、結構ざっくりいっちゃったのかな、と心配になり、進藤はそっと立松の手元を覗き込んだ。
「なーんだ。こんなのケガのうちに入んないよ」
 進藤は気の抜けた声を出す。立松の指は、ほんの少し切れているだけで、それもよく見ないと分からない程度だった。
「や、でもね、これが案外痛いのよ」
 言いながら、立松が傷口のすぐ側を親指の爪でぐっと押すと、じわりと血が滲んだ。無理に血を出そうとすんなよ、と進藤が呆れたように言った。立松は、ぱっと進藤に向き直り、右手の人差し指を差し出した。な、なんだよ、と進藤はわずかに身を引く。
「舐めて!」
「はあ!?」
「そしたら治るから」
「やだよ」
「じゃーいっそ俺が進藤ちゃんを舐めようか。舐められるより舐める方が向いてるしね、基本的に」
「……」
「うわーん、黙られたーー」
 イーターイー死ーぬー、と大げさに騒ぐ立松に呆れたり困惑したりしつつ、絆創膏出してくるよ、進藤が立ち上がろうとすると、服の裾を引っ張られて止められた。
「いらない。もう自力で治しちゃうもんね」
 そう言って、立松は右手の人差し指をぱくりと口に含んだ。舌に血の味が絡み付く。ほんのちょっとの血なのに、生々しい、特有の味がして、きもちわるい、と立松は思った。あー自分で舐めてもつまんない〜、と、立松が不機嫌な表情を作って言うと、進藤は軽く小首を傾げた。
「…立松ってさ、たまに変だよね」
「えーっ。たまにってゆ〜かぁ、俺はいっつも変だよ!」
「あー、まあそう言われてみればそうかも」
「って素で納得せんで下さい」
 進藤の肩を手の甲で叩いて立松が突っ込むと、あはは、と進藤が笑った。
「ねえねえ、プール行かない?」
 立松から、何の脈絡も無く切り出された提案に、進藤は思わず、えっ? と驚きの声を上げてしまう。
「前みたいにさ、夜のプールに忍び込んじゃおう。無慈悲な月光に照らされ艶かしくきらめく水面。暗闇色の水の中で麗しく泳ぐ二人の人魚……、カーーッ! romantic! fantastic!」
 不自然なくらいはしゃぐ立松の頭をペチッと叩き、何言ってんだよ、と進藤は呆れる。問題になったらどうすんだよ、と進藤が真面目な調子で返すと、立松は、ちぇっ! と口を尖らせた。わざと拗ねた顔を作ってみせる。最初から、駄目だと分かっていて口にしたのだろう。
「じゃあ海に行こうよ」
 立松からの新しい提案に、進藤は眉を顰める。
「今から? もうバス出てないよ」
「自転車で行くのです」
「やだ」
 きっぱり言われ、立松は、ちぇっ! ちぇっ! とさっきよりも大げさな調子で言って、頬を膨らませた。やはり、最初から断られると分かっていて、本当は行く気など無いくせに、提案しているのである。どうしてそんなことを? 立松の真意を量りかね、進藤は首を傾げてしまう。考えてみても分かりそうになかった。
「…そんなに水が恋しい?」
 ふと進藤から発せられた言葉に、立松は瞠目する。普通は「そんなに練習したい?」とかって訊くよね…、と思いながら、立松は苦く笑った。
「あーそうなのかなあ。そうなのかもね」
 じゃあさ、と進藤は立松の方にわずかに身を乗り出し、別の提案を。
「銭湯は? 多分まだ開いてるよな。チャリで行けばすぐだし」
「うん」
「行っとく?」
「…行っちゃう!」

 閉店時間が近いためか、銭湯はかなり空いていた。進藤と立松以外には、二人の客しかいない。その二人も、進藤と立松が髪や体を洗っているうちに風呂を出てしまった。
「わ〜お、二人っきりになっちゃった」
「貸切りじゃん」
 自分達しかいなくて広々とした湯船にゆったりと浸かりながら、二人で笑い合った。
「せっかく二人っきりになったんだし、なんかする?」
 意味深なニュアンスを含めて言った立松に、なんかってシンクロの練習? と進藤があっさり返す。
「ワハハ、さらっと逸らされたー」
「ていうかもうあんま時間無いからさっさと出ないとなあ」
「ていうか進藤ちゃん、それって素なの? それとも意図的?」
「あれ? なんかさ、俺らの会話、噛み合ってなくない?」
「どっちのせーよ」
「そっちのせーだろ」
「デスヨネ〜」
 石塚の口調を真似た立松に、デスヨ、と進藤が合いの手を入れた。なんか俺らって息ぴったりじゃん? と立松が笑うと、シンクロの練習のたまものかも? と進藤も笑った。
 時間が無いと言いながらも、湯船の中、二人で振り付けの確認をし合ったりした。
「あー湯が傷に沁みるぜぇ」
 そろそろ出るか、と言うときになって、思い出したように立松が言う。
「また大げさに言ってる」
 立松の指を見ると、よく見ないと傷があるのかどうかも分からず、しつこく痛がってる立松に進藤は呆れてしまう。
「舐めてよ」
「まだ言うか」
 ケチだねーキャプテンのくせに、と言う立松に、それは関係無いだろ、と返し、さあ出るぞ、と進藤は立松の肩をベチッと叩いた。立松が肩を押さえて痛がってる間に、進藤は湯船から出て出口に向かう。慌てて浴槽を上がって、進藤を追い掛け、待って! と、立松は後ろから進藤の腕を強く引っ張った。
「う、わっ!」
 思いきりバランスを崩して、進藤が滑って転びそうになる。立松が咄嗟に支えようとするが、失敗に終わり、進藤が立松の上に被さるような形で、二人してタイルに倒れ込んだ。突然のことに、進藤は言葉を失ったが、はっと我に返り、自分の下にいる立松を怒鳴った。
「バッカ、お前…! あぶねーだろ! もう! バカ! 頭打って死んだらどーすんだよっ!」
「ワッハッハッ! 俺も進藤ちゃんもちゃんと生きてま〜す!」
「一歩間違えたら死ぬ!」
「でも、生きてるよ」
 体を支えるためにタイルに突いている進藤の腕を掴み、立松が自分の側に引き寄せようとした。でも進藤はなんとか耐え、立松の体に倒れ込むことはなかった。状況に流されて体をくっ付けてしまうなんて嫌だ、と進藤は思った。ならばさっさと身を起こせばいいのに、立ち上がれそうな気がしない。下から立松がじっと見上げてくる。進藤は仕方なく立松を見つめ返した。
「進藤ちゃん、目の中の奥まで濡れてる…」
 でも元から目も睫毛も潤んでるよな、と立松は思う。きっと進藤は、普通の人より体内の水分量が多いんだ。そして、自分は水分が少ない。よく目や喉が乾く。ああそうか、だから自分は進藤に惹かれるのか、と。
「…気持ち悪い言い方すんな」
 進藤の髪の先から、水滴がポタリポタリ、立松の顔に落ちる。立松がそっと唇を開けば、口の中に水が入り込んだ。進藤から滴り落ちた雫は、鮮やかな味だった。舌が燃え死ぬ。喉が焼ける。もう既に、一歩も二歩も、間違えちゃってんのかもね、と立松は思い、静かに目を閉じた。視界を閉ざせば、神経が鋭敏になる。イメージが膨らむ。愛のイメージ、欲望のイメージ、混沌としているようで、至ってシンプル。綺麗に四角く切り取られた赤い形。手を伸ばせば今にも掴めそう。握り潰すことだってできそう。でも実際は決して触れられないものなのだ。目に見えるものは信用できない。目に見えないものは余計信用できない。イメージは時に人を惑わせ迷妄の道に誘い込む。怖くなって目を開けると、すぐ上に、進藤の真っ直ぐな強い眼差しがあった。どんなイメージも、あらゆるイマジネーションも、この眼の前では粉々だ、と立松は改めて思った。打ちのめされてしまう。(
ああ、










 感情が肉体が充血する。その代わりみたく理性の回路が鬱血して、見失ってはいけない線を見失いそうになる。毛細血管がざわざわする。あなたのものになりたいわ、って、血液が沸騰する。おい、お前ら、静まれ、お前ら。もっと、余裕とか、見せてみろって。)
 立松がゆっくりと右腕を上げ、進藤の唇に人差し指を当てると、進藤は、観念しました、といった様子で、立松の指を口に含んだ。立松の指は血の味など一切しなかった。したのは、水の味と、立松の匂いだけ。
 進藤の口から静かに指を引き抜き、立松は唾液で湿った指を、進藤の顎、首にゆっくりと滑らせていった。喉骨に至ったところで指の動きを止める。
「…何?」
「いや、」
「ん?」
「ただ、ちょっと、なんとなく、」
「うん」
「おもいっきり首絞めてやりたくなっただけよ〜ん」
 三秒の間の後、進藤は、ハ、と短く笑った。進藤の髪から、ポタリと水滴が伝い落ち、立松の頬を濡らす。
「せめて学園祭が終わってからにして」
 進藤の返答に、なんて最強の切り返しだよ、と、立松は目の眩む思いだった。
(もしかなくてもこいつってほんとすごい奴なんじゃないの?)
 立松がいっそ呆然とした思いで進藤を見つめると、進藤は照れたように笑った。それはまさに、完璧な微笑み方であったので、立松は、瞬きの仕方を見失ってしまった。



















































Aug.24,2003





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